第32話「机のあいだ」
終礼が終わると、教室の空気は一度だけ前からほどけて、そのあとで机の間にばらけた。
椅子を引く音が続いて、鞄のファスナーがあちこちで短く鳴る。机の上に出たままだったノートが閉じられて、紙の端が擦れる音が重なった。窓の外はまだ白く明るい。なのに教室の中では、帰る人の足音より、残る人の手元の音の方が先に残って聞こえた。
僕は英語のノートを閉じないまま、シャーペンを机の端に置いた。すぐ帰るつもりもないけれど、何かを始める感じでもない。前の方ではまだ何人かが席についたままで、声だけが少しずつ戻ってきていた。
通路側で、誰かが鞄を机に引っかける。少し遅れて、小さい笑いが起きた。
「喫茶店かー、やっぱコーヒーとか出すのかな?」
「え、でもさ、接客とかあるんでしょ?」
「それが一番だるくない?」
「私、そこ無理かも」
さっきまで黒板の前にあった話が、もう近くの席の声でしか聞こえなかった。
前の席で、佐藤さんが椅子ごと半分だけ振り向く。
「葵、呼び込みいける?」
いきなりそこなのかと思って、僕は少しだけ笑った。
「いや、それはあんま」
「だよね」
「何その、聞く前から分かってた感じ」
佐藤さんが肩を揺らす。
「だって、葵って声通らないじゃん」
「それは……まぁ」
否定しづらくて、そのまま詰まる。右隣で、開いたままだった筆箱のファスナーが短く鳴って、木下さんが少しだけ顔を上げた。
「呼び込みは向いてないかもね」
すぐにはこっちを見ないままの声だった。
「でも、水野くんは、前に立つより中の方が向いてそう」
「中?」
「うん、細かい作業とか」
言い方は静かなのに、妙に逃げにくい。後ろで井上が小さく息を漏らした。
「それはちょっと分かる」
「井上まで乗るの」
「いや、俺も呼び込みはたぶん無理だけど」
椅子の脚が後ろで鳴る。井上はたぶん背もたれに体重を預けたまま、天井でも見ているみたいな声だった。
「注文とか、たまに聞き返しそう」
「それはもう店として危ないでしょ」
「危ないね」
佐藤さんが笑う。木下さんも口元を微かに緩めて、それから机の上のノートを重ね直した。
前の列では、別の話がもう少し大きい声で続いている。
「机と椅子はそのまま使えそうだけどね」
「まあ、それはそう」
「でも、運ぶやつとかあるなら普通に面倒そう」
「そこ分けるの誰なんだろ」
誰かが立ち上がって、通路をひとつ空ける。そこを抜ける足音がしても、喫茶店の話だけは切れなかった。
僕はノートを閉じる。表紙が机に当たって、短い音がした。
「思ったより、座ってるだけでは済まないのかも」
口にしてから、自分でも少し遅いと思う。もう少し前に出てもよさそうな感想なのに、今さらみたいに出た。
佐藤さんがまたこっちを見る。
「今さら?」
「いや、なんか……決まる前は、もうちょい座ってるだけ寄りかと」
「何その寄り」
「分からんけど」
言いながら、自分でも曖昧だと思う。
「普通の喫茶店ではないもんね」
木下さんがそう言って、今度はちゃんと前を向いたまま続ける。
「教室だし。たぶん、思ってるより色々あると思う」
「急に現実見せないでよ~」
佐藤さんが机に肘をつく。
「佳乃ちゃんに言われると嫌だなー」
「嫌っていうか、たぶんあるでしょ」
「あるとは思うけど」
そのあと、前の席で筆箱が鳴る。続けて、別の席で椅子の脚が鳴った。机の間に残っている声だけが、まだ少し先へ伸びていく。
後ろで井上が小さく机を鳴らす。
「俺、前出るやつだったら嫌だな」
「え、井上、そこは確かに無理そう」
「…佐藤さんもまぁまぁ言うね」
「だって井上、いらっしゃいませの顔ではないじゃん」
「どんな顔?」
そこだけ少し笑いが広がる。前の方でも、似たようなところで誰かが声を上げた。
「絶対向いてないやついるよな」
「水野とかな」
通路の向こうの列から聞こえてきて、僕は顔を上げる。前の方で、こっちを見たまま笑っているやつがいて、その近くの席でも何人かがつられて笑っていた。
「何でそこで俺?」
「おまえ、どっちかって言うと客側だろ」
「わかる」
佐藤さんが前から笑う。木下さんはそこでは笑い声を立てず、微かに肩を揺らした。
声だけが先に揃っていく。決まったばかりのもののはずなのに、「もしやるなら」の言い方でしか出てこない。
誰かが教室の後ろの戸を開ける。廊下の音が一瞬入って、すぐ閉まる。帰る人の鞄が肩に掛かって、残る人の机の上にはまだ紙が残っている。
僕は閉じたノートを手前に引き寄せる。
窓際でカーテンが揺れる。
「何にしても、思ったより色々ありそうだね」
「……既に気が重いんだけど」
「井上、早くない?」
「…でもまぁ、もうやるしかないし」
筆箱が机の端で小さく鳴る。ノートを鞄に入れる音がして、そのあとで、開いたままの話だけが、帰る音のあいだに残っていた。




