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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第29話「輪郭を帯びる」

 終礼の前になると、教室の音は少しだけ落ち着き方を変えた。


 授業が終わったあとの軽さはあるのに、まだ完全には帰る方へ傾いていない。引き出しの中で何かが触れる音がして、少し遅れて筆箱のファスナーが鳴る。机の上には教科書が開いたままの席もあったけれど、ページを戻す手つきはどこもゆっくりだった。


 窓の外はまだ白く明るいのに、その明るさは教室の奥まで広がる前に、机の上の紙や、開いたままのページの端だけを薄く拾っていた。


 僕はノートを閉じて、机の端に寄せた。


 前の方ではまだ小さい声が続いている。廊下側の列で椅子がひとつ鳴って、すぐ止まる。帰る準備に入っている人もいるはずなのに、その速さが教室全体では揃っていなかった。


 前の引き戸が開いて、先生が入ってくる。


 出席簿を教卓に置いて、連絡をいくつか先に済ませる。提出物のこと。来週の予定のこと。忘れ物を取りに来いという話。そこまではいつも通りで、まだ鞄を膝に乗せたまま聞いている人もいれば、机の中へ手を入れたまま顔だけ前へ向けている人もいた。


 連絡帳を閉じる音がして、前の方の声が少し細くなる。


「じゃあ、学園祭のことなー。今日は簡単に案だけ出して、そこで終わるから」


 そこで何人かが顔を上げた。帰る前の空気はまだ残っているのに、前を見る人が少し増える。


「今日は、案を出すところまでですか?」


 佐藤さんの声が先に届く。


「そうそう。まだ決めきらなくていいからな。出せるやつを出して、近いの見てく感じでいい」

「食べ物系もありですか?」

「出すのは別にいい。そこから更に絞るかはまた別」

「準備めっちゃ大変そうじゃないですか?」

「それは何やっても多少はあるだろー」

「楽なやつがいいー」

「それ、全員そうだろ」


 前の方で小さく笑いがこぼれる。


 先生が黒板の端にチョークを当てる。


 白い粉が少し落ちて、右へ流れる字が短く並び始めた。書き直すほどじゃないけど、まだ決まりきっていない言葉ばかりで、間も揃っていない。思いついた順番に書かれていった字は、綺麗にまとまる前の声みたいに、少しずつ離れたところへ残っていく。


「喫茶店ー」

「お化け屋敷」

「展示とかは?」

「地味じゃない?」

「楽そうではある」


 声はあちこちから短く上がった。近い席同士で先に何か言い合ってから出す人もいれば、そのまま前へ向けて言う人もいる。黒板の端に言葉が増える度、少し空いたところへ別の案が足されて、似たもの同士が何となく寄っていった。


 右隣で、木下さんの手が止まる。


 黒板を見たまま、小さく言った。


「…本当にまだバラバラだね」

「だね」


 それだけ返して、僕もまた前を見る。


 教室のあちこちで短い声が出て、その度に小さく笑いがほどける。机の上の筆箱も、きちんと片づく手前で止まっていた。まだ勉強に戻る前の机で、何も決まっていないまま置かれている感じが、そのまま教室じゅうに残っていた。


「まぁ、今日はこのくらいにするか。続きはまた今度やろう」


 チョークが置かれて、そこで椅子を引く音が一斉に鳴った。


 教室は一度だけ、ちゃんと帰る形になる。

 けれど、そこからすぐに空いていくわけじゃなかった。


 鞄を肩にかけて先に出る人がいる。そのまま廊下で別の話を始める声もする。まだ座ったまま黒板を見ている人もいて、前の方では立ったまま何か話している。通路側へ少しだけ体をずらした席がいくつか見えた。


 後ろで椅子が短く鳴る。前の方から佐藤さんが誰かの名前を呼ぶ。右隣で木下さんが筆箱のファスナーを引いて、それを机の端に置いたまま、もう一度だけ黒板の方へ目を向けた。


 机の上のものだけが、まだ勉強に戻る置かれ方をしていなかった。


 佐藤さんが黒板を見たまま言った。


「喫茶店、絶対大変じゃない?」


 その声は、誰か一人に向けた感じではなかった。前の方の何人かが少し笑って、すぐ止まる。


 黒板を見たまま、僕は言う。


「まあ、たぶん」

「『たぶん』って何?」

「いや、普通に」


 そこで右隣から、木下さんの声が入る。


「大変そうではある」


 短かったけど、その言い方だともう決まってるみたいで、佐藤さんがすぐ笑う。


「やっぱそう思うよね」


 後ろで椅子が短く鳴る。


「当日は楽しそうだけどね」


 井上の声がして、前の方の笑いがもう一回だけ広がった。


「当日はね」

「準備の方が長いし」


 そう返すと、佐藤さんが少しだけ振り向く。


「佳乃ちゃんは?」

「…展示の方が楽かも」

「うわ、やっぱそっちか~」


 近くの席でも笑いが小さく残る。廊下へ出ていく足音はまだあるのに、前の列で椅子がひとつ斜めになる。筆箱は閉じたままで、ノートもまだ開かれない。


 佐藤さんは前を向いたまま、机の端に肘をついた。


「ただ、展示ってちゃんと考えないと地味になりそうじゃない?」

「それはある」


 少しだけ首を傾けて、佐藤さんがまた言う。


「葵は、展示するなら何がいいと思う?」

「何がって言われても…」

「ほら、写真とか、展示っぽいやつ色々あるじゃん」

「写真は、普通過ぎて面白くないかも」

「うわ、急に厳しい」

「いや、でも分かる」

「でしょ」


 後ろで井上が笑う気配がして、椅子の脚がまた短く鳴った。


 そこで右隣が少しだけ動く。木下さんは黒板を見たまま、筆箱の上に置いていた指先を離した。


「まぁたしかに、写真だけだと弱いかも」


 佐藤さんがすぐに拾う。


「佳乃ちゃんは何が足りないと思うの?」

「…見るだけじゃなくて、触れたりできた方がいいかも」

「…えっと、つまりどういうの?」


 木下さんはすぐには返さなかった。黒板の端を見たまま、少しだけ間を置く。


「そこまではまだ…」

「いや、言わんとすることはちょっと分かる」

「葵は分かるの?」

「見るだけで終わらない方がいいってことでしょ?」

「あ~、それならちょっと分かるかも」


 そこで一度、近いところの会話が薄く切れた。


 廊下へ出ていく足音は、さっきより少なくなっている。通路側の椅子がいくつか斜めになったままで、机の上のノートは閉じたまま、筆箱もまだ端に寄っていた。帰る人は帰っているはずなのに、残っている方の動きだけが、昨日までより少し遅い。


 僕は鞄に手をかけたまま、机の上を見る。


 開き直すつもりのないノートと、端に寄ったままの筆箱。その置かれ方だけで、まだ今日は終わっていないみたいだった。


 後ろで、井上が小さく息を吐く。


「なんか、まだ帰る感じしないね」

「…だね」


 それだけ返して、また前を見る。


 窓の外は、さっきまでの白さが少し薄くなっていた。ガラスには教室の中が先に映りはじめていて、黒板の端に残った字も、斜めのままの椅子も、机の上の閉じたノートも、端に寄ったままの筆箱も、形を変えずそこにあった。


 ただ、輪郭だけを少しずつ濃くしていった。

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