第28話「廊下に落ちる」
朝の教室は、昨日までより机の上が軽かった。
問題集の角も、範囲表の折れ目も見えない。筆箱と、薄いノートが一冊だけ出ている席が多くて、それだけで音の散り方まで少し変わっていた。前の方で椅子が鳴り、すぐに笑い声がほどける。窓の外はもう明るいのに、教室の中はまだ前へ向ききっていなかった。
僕は鞄を机の横に掛けて、自分の席に座る。
右隣で、木下さんが筆箱を開いたまま、シャーペンを机の端へ揃えていた。昨日までみたいに教科書を何冊も出しているわけじゃなくて、手元は綺麗に空いている。白い机の面が、いつもより少し広く見えた。
後ろで、井上が鞄を置く。鈍い音がして、その後で椅子の脚が短く鳴った。一つ席を挟んだところでは、岡田が何か言って笑われている。前の方にはもう宮本がいて、ときどき佐藤さんの声が混ざった。
そのまま、前の引き戸が開く。
先生が入ってきても、空気はすぐには揃わなかった。出席簿を教卓に置き、教室をひと通り見てから、軽く息をつく。その間にも、前の列ではまだ小さい声が続いていた。
「試験終わったからって、今日から急にぼんやりしていいわけじゃないからな」
何人かが笑って、そこで漸く前の方の声が細くなる。
先生は連絡帳を開いて、教室を見渡した。
「今日の終礼のとき、学園祭のやつ少し進めるからな。『え~』って顔してるやつもいるけど、もうそんな時期だぞ」
前の方で、すぐに声が上がる。
「早くない?」
「試験終わったばっかなのに」
「全然ゆっくりさせてくれないじゃん」
笑いが小さく広がって、そこでまた椅子がいくつか鳴る。
岡田が机に肘をついた。
「切り替え早すぎるって」
「昨日まで全然違うことやってたのにね」
「だから今日からなんだろ」
宮本の低い声が入って、そのあとでまた短く笑いがこぼれる。後ろでは、井上が少し間を置いてから前を向いたまま口を開いた。
「まだ頭、そこまで行ってない」
その言い方に、近くでまた笑いがほどけた。
右隣で、木下さんの手が止まる。シャーペンを持ったまま前を見て、そのまま少しだけ黙っていた。
僕も前を見たまま、小さく言う。
「早いね」
木下さんはすぐにはこっちを見なかった。
「ね、まだ取り残されてる感じする」
「わかる」
それだけで終わって、木下さんは机の上のノートを少しだけ引き寄せた。筆箱のファスナーが指先に触れて、小さく鳴る。
先生はその騒めきを完全には止めないまま、ページをめくる。
「今日で全部決めるわけじゃないけど、何もないままは困るからな。流れだけでも見とくぞ」
前の方の笑いが、そこで引いた。椅子を鳴らしていた人も、机に頬杖をついていた人も、そのままの格好で教卓の方を見る。
誰かが前の席で椅子を引く。窓から入った風でカーテンがふくらみ、すぐ元に戻る。
昨日まで机上を埋めていたものは、もう無いままだった。
午前の授業は、いつもの形で進んだ。
黒板にチョークが当たる音がして、ノートを開く音が遅れて続く。紙をめくる手つきは昨日までより軽いのに、まだ完全にほどけてもいなかった。先生の声が前から流れて、止まる度に、シャーペンの先が迷う。
休み時間になると、教室の形はすぐに崩れた。
前の方へ行く人がいて、後ろの方で立ったまま話し始める人がいる。椅子を半分だけ引いたまま、通路へ体を向けている席もあった。授業の間に揃っていた空気だけが、短い時間でまたばらける。
井上が後ろから僕の机の横へ来て、岡田も左から寄ってくる。二人とも完全には座らず、机の端に手をついたままだった。
「今日、わりと進むのかな?」
「どうだろ。係決めるくらいじゃない?」
「でも先に何やるか決まらないと、それも決めらんないだろ」
岡田が僕の机の上のノートを見たあと、すぐ顔を上げる。
「前、ちょっと話したよな」
「したした」
「結局、あのとき何も出なかったんだっけ」
「『食べもん系』とか言って、そこで止まった」
「それ、前と一緒じゃん」
「おまえもその中にいたけどな」
岡田が少し笑って、肩を引いた。
「いたけど、俺はもっとマシなこと言うつもりだったし」
「言えてない時点で変わんないじゃん」
「水野、今日ちょい当たり強くない?」
「普通」
「いや、今のはちょっと入ってた」
「何がだよ」
井上がそこで笑って、机の端から手を離しかける。近くの列からも似たような話が聞こえてくる。何をやるか、誰が仕切るか、もうそこまで決めるのか。短く出て、別の話に流れて、また戻ってくる。
次の授業が始まる前、井上が机の端から手を離す。
「水野、そういうの考えるの早そう」
「なんで?」
「早く決めて、早く終わりたそうだから」
「…それはちょっとある」
岡田が笑う。
「あるんだ」
「あるだろ」
「出た、面倒回避」
「楽に越したことないでしょ」
「開き直り早いな」
そこで小さく笑いが起きて、二人とも自分の席へ戻る。井上の椅子が短く鳴って、岡田は座る前に一度だけ前を見た。
昼休みが近くなる頃には、朝の連絡そのものより、そのあとに残る感じの方がはっきりしていた。
時計を見る人が増える。筆箱を直す音が早めに鳴る。先生の最後の声が終わる前に、前の列の何人かはもう机の下へ手をやっていた。チャイムが鳴った瞬間、椅子を引く音が一度だけまとまって、その後でまたばらける。
「やっと昼」
「腹減った~」
「今日なんだっけ?」
そんな声が前の方から続いて、教室の温度が少しだけ上がる。
僕はノートを閉じて、机の端へ寄せた。財布を鞄から出す。隣を見ると、木下さんが出ていた教科書を重ねてから、弁当を取り出していた。いつも通り、机上を綺麗にしてから包みを置く。
立ち上がると、左後ろで岡田も椅子を引いた。
「水野、今日ちょっと早くない?」
「そう?」
「今日は若干、昼の顔してた」
「どういう顔だよ」
「もう考えるのやめて食う方に行ってる顔」
「聞いても意味が分からん」
前の方で、佐藤さんがこっちを振り向く。
「葵、今日は早いね」
「佐藤さんもそう思う?」
「うん、いつもと雰囲気違うし」
「そんなに?」
「そんなに」
笑いながらそう返して、佐藤さんは弁当の包みを引き寄せる。前の席に移っていた木下さんが、小さく笑った。
「見られてるね」
「見られてたらしい」
それだけ言って立ち上がる。後ろでは井上が財布を探していて、椅子を引く音が少し遅れて鳴った。
教室のあちこちでも椅子の脚が床を軽く擦る。男子の流れが引き戸の方へまとまり始めて、前を歩く背中の数が、いつもより少しだけ多く見えた。
廊下へ出ると、同じような流れが隣のクラスからも出てきていた。上履きの音が重なって、階段の方へ向かう列がゆるく太くなる。
「今日、どこまでやるんだろ」
「まず係じゃない?」
「その前に何やるかでしょ」
「どっちもだろ、たぶん」
岡田と宮本の声のあいだに、前を歩いていた誰かの笑い声が混ざる。固まりのまま動いていると、一つの話が最後まで続くことはあまりない。誰かがふざけて、別のやつがずらして、横から違う話が入る。そういうまま、階段を下りる足が揃っていく。
井上が僕の横に来て、少しだけ首を傾けた。
「もう何かしら浮かんでる?」
「全く」
「安心した」
「井上は?」
「無い。まだ“面倒”が勝ってる」
その言い方が少しおかしくて、笑うと、前にいた岡田が半分だけ振り返る。
「水野ら、なんの話?」
「井上がまだ面倒の方が勝ってるって話」
「あー、それは分かる」
「分かるんだ」
「分かるけど、今日でちょっと変わるだろ」
「なんで?」
「さっき先生、わりと進める顔してたし」
そこで会話が少し止まる。階段の踊り場で前が詰まって、列が一度だけ細くなる。
宮本が手すりの方を見たまま口を開く。
「でもまあ、今日で大枠はできるんじゃない?」
「大枠って言い方、ちょっともうやる感じあるな」
「あるだろ。朝あれだけ言われたし」
「それはそう」
また列が動き出す。食堂の入口が近づくと、人の流れは一度細くなって、トレーの当たる音や食器の鳴る音が先に聞こえてきた。
中へ入ると、空気が少しだけ温くなる。
床に引かれた線の上を何人かがそのまま進んで、券売機の前で立ち止まる。何を食べるか決めきれていない声がいくつか重なる。いつもの昼休みの音だった。試験前の数日はここでも少しだけ声が減っていた気がするけれど、今日はまた戻っている。
岡田が先に食券を買って、振り向く。
「水野、今日なんにすんの?」
「まだ見てない」
「おせぇな」
「今来たばっかだろ」
「学園祭の方はちょっと考えてそうだったのに」
「そっちはちょっと」
「中途半端だな」
「おまえにだけは言われたくない」
岡田が笑って、食券を指で弾く。後ろから宮本が「それはそう」と小さく笑って、井上は横でメニューを見上げたまま黙っていた。
結局いつもとあまり変わらないものを選んで、トレーを持って席を探す。もう何列かは埋まり始めていて、男子がまとまって座れるところへ自然に流れていく。椅子を引く音がまとまって、その後すぐに食器の音が続いた。
座ると、話はまたばらける。
部活のことを言っているやつがいて、昨日までの試験の話をしているやつがいて、その間に朝の連絡の続きが混ざる。話題が一つにまとまらないまま、それでも同じ固まりの中で昼が進んでいく。
岡田が箸を割りながら言った。
「やっぱ食べもん系だろ」
「俺もそっちの方がいい」
「おまえはそうだろうな」
「ステージ系は見てる分にはいいんだけどな」
「やる側はだるそう」
「間違いない」
宮本が水を置きながら少し笑う。
「まあ、分かりやすいし」
「出やすくはあるよね」
「楽かどうかは別として」
「でも最初そこ行きがちではある」
近くの列でまた別の笑い方が返る。さっきまでこっちでしていた話が、少し離れた席でも続いていた。
井上が味噌汁を見たまま言う。
「去年、何やったのか気になる」
「それな」
「内進のやつに聞けば分かるんじゃない?」
「たしかに」
「もう聞いてる人いそう」
その話に、向かいの列からも誰かが乗る。先輩のときどうだったとか、去年はなんか見た気がするとか、はっきりしないままの言葉がいくつか重なって、すぐまた別の話へ流れていく。
水を飲んで顔を上げると、少し離れた席でもまた学園祭の話が出ていた。
朝に聞いたときは、まだ連絡の続きみたいだった。今は、別の席の笑いの間にも、その話が混ざっていた。
少し離れた席で笑いが起きる。別のところでは、試験の話がまだ続いている。食器の触れる音、椅子を引く音、人が立つ気配。学食の中はいつもの昼休みのままなのに、その中へ新しい話題だけが上手く混ざっていた。
岡田が途中で箸を止める。
「で、結局何が一番楽なんだろ」
「ほんとそこぶれないな」
「ぶれても困るだろ」
「困り方がもう岡田なんだよ」
宮本の声に、何人かが笑う。井上が少し遅れて「正直ではある」とだけ言って、それでまた笑いが広がった。
僕は水を飲んで、トレーの向こうを少しだけ見る。
窓際の席まで昼の光が入っていて、奥の方の白い壁が明るかった。人の動きは絶えないのに、流れそのものは、もういつもの形に戻っている。
「水野、今日やけに静かじゃね」
「おまえがうるさいだけだろ」
「出た」
「いやほんとに」
「でもちょっと考えてる顔ではある」
「宮本までそっち側?」
井上が少しだけ口元を上げる。くだらないやりとりのまま昼休みは進んでいく。
返却口の方で食器が重なる。誰かの椅子が鳴って、その音が少し遅れて止む。
学食を出ると、廊下のあちこちでも学園祭について話す声が聞こえた。隣のクラスの声と、階段を上がってくる別の学年の声が、同じ言葉だけを何度か落としていく。上履きの音が重なって、窓際の明るい廊下を人が行き来する。
まだ何も決まっていないのに、その話だけはもう廊下のあちこちに落ちていた。




