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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第27話「机を離れる」

「終わりです。筆記用具を置いてください」


 最後の声が落ちても、教室はすぐには動かなかった。


 シャーペンを机に置く音が、あちこちで少しずつずれて鳴る。紙を裏返す音。消しゴムが転がりかけて、指先で止まる気配。窓の外はまだ白く明るいのに、教室の中だけが、そこで一度息を止めたみたいだった。


 後ろの席から、答案が前へ回り始める。紙の端が机に擦れて、乾いた音が短く続く。受け取る手つきはどこも少し遅い。列の前へ近づくにつれて、さっきまで揃っていた静けさが少しずつ崩れていった。


 僕は手を離して、机の上の問題用紙を見る。端が少しだけ折れていて、さっきまで押さえていた跡だけが残っている。終わったはずなのに、頭の中はまだ途中で止まっているみたいで、すぐには鞄へしまう気になれなかった。


 右隣で、木下さんがシャーペンを筆箱に戻す。布の口が少し開いたままで、金具が触れて小さく鳴る。ファスナーを閉める音がして、そのあとで、小さく息をついた。


「…終わったね」

「やっとね」


 それだけ返すと、木下さんは少しだけ笑った。問題用紙を揃えて、端を軽く押さえてから鞄へ入れる。机の上はほとんど乱れていないのに、その動きだけがさっきまでより少しだけゆるかった。


 前の列で、集められた答案の束が重なる音がする。そこでようやく、何人かが同時に背中を離した。


「今日は終礼は無いので、そのまま帰っても大丈夫です」


 前から先生の声がして、そこでまた椅子がいくつか鳴る。鞄の口が開いて、ファスナーの音が重なって、試験とは別の音が少しずつ戻ってくる。


「あー、無理だった」

「最後のやつ、何書いた?」

「知らん。とりあえず埋めた」


 近い席どうしでそんな声が続く。少し離れたところで笑いがこぼれて、また別の席で別の話が始まる。


 斜め後ろで、井上が椅子にもたれた。


「…ねむ」


 その声に、後ろの方で小さく笑いが混ざった。


 前の方ではもう立ち上がっている人がいる。後ろの列でも、鞄を肩に掛けたまま振り向いて話し始める人がいる。さっきまで前に揃っていた視線が、少しずつ横へずれていった。


 岡田が自分の席から出て、机の間を抜けてくる。途中で誰かに何か言われたらしく、半分だけ振り返って笑ってから、そのまま僕の机の横で止まった。少し遅れて井上も立ち上がる。宮本は前の列から回り込むようにこっちへ来て、机の端に手をついた。


「水野、生きてる?」

「何とか」

「それも怪しいな」

「顔、終わってるもんね」

「井上に言われたくないだろ」


 笑いが起きて、そこでようやく肩の力が抜けた感じがした。


「終わったし、なんか食い行こうぜ」

「急だな」

「いいだろ。終わったんだし」

「何食う?」

「岡田はポテトだろ」

「ええて」


 さっきまで問題のことしか言っていなかった口が、ようやく別の方へ動いた感じがした。


「水野、行く?」

「行くなら行く」

「雑だなあ」


 宮本が笑いながらそう言って、机から手を離す。岡田はもう半分、廊下の方へ体を向けている。井上も鞄を持ち上げて、肩に掛け直した。帰る人とまだ残る人が、教室の中で少しずつ分かれ始めていた。


 前の方では、佐藤さんが近くの女子の机に寄って何か言っている。そこでも小さく笑いが起きて、もう問題の話をしている感じではなかった。別の列では、まだ試験のことを引きずっている声がして、その少し向こうでは、帰りにどこへ寄るかみたいな話が混ざっていた。


 僕も鞄を持って立ち上がる。椅子の脚が床を擦って、右隣で木下さんも同じくらいの速さで教科書を鞄へ入れていた。机の上はもうほとんど片付いていて、さっきまで問題用紙しか見えていなかった場所に、何もない白さだけが残っている。


 岡田たちは先に廊下の方へ動き出す。僕も鞄を肩に掛けて、列から出た。


 そのとき、木下さんが顔を上げた。


「ほんとに行くの?」

「どうだろ。流れで、って感じかも」

「ありそう」


 少しだけ口元がやわらいで、それで終わった。


「木下さんは?」

「私は帰る。ちょっと疲れたし」

「そっか」

「うん。楽しんできて」


 軽く言って、また鞄の中へ目を落とす。


「じゃあね」

「うん、またね」


 引き戸の方へ向き直ると、木下さんはもう机の上に残っていた消しゴムを筆箱へ戻していた。


 廊下側では、もう何人かが外へ出ていて、教室の中の声もさっきより遠くなっている。前を歩く岡田が、何を食べるかをまだ引っ張っていて、その横で宮本が半分だけ笑いながら返している。井上は少し遅れてついていきながら、眠そうな顔のまま会話には入っていた。


「だからポテトじゃ足りないって」

「足りるだろ」

「足りねえよ」

「水野、どう思う?」

「足りない」

「ほら」


 岡田が振り返って笑う。そのまま歩幅を少し緩めたぶん、僕も追いつく。


 窓から入る風は弱くて、廊下の光はまだ白い。引き戸の向こうで、誰かが遅れて鞄を持ち上げる音がした。


「じゃあ何食うんだよ」

「それを今から決めるんだろ」

「遅くない?」

「遅くていいんだよ、今日は」


 その声の中に混ざったまま、僕も廊下へ出た。

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