第26話「こぼれる」
午後の教室は、朝より少しだけ形が崩れていた。
机の上に出たままの問題用紙の角が斜めのまま残っていたり、消しゴムが少しずれていたりする。昼休みを挟んで座り直したはずなのに、どの席にも少しだけ手の跡が残っていた。窓の外は白く明るい。朝より光は強いのに、教室の中はその分だけ静かに見えた。
どこかでシャーペンが机に当たる。硬い音がして、すぐ止まる。少し遅れて、別の席で紙をめくる音が重なった。
僕は範囲表を見たまま、しばらくページを進められなかった。
後ろの方で、岡田が椅子を鳴らす。
「だり~」
「まだ一個あんの、普通に終わってる」
「それはそう」
宮本と井上の声が続いて、小さく笑いが起きた。大きくはなくて、机に向いたまま肩だけが揺れるような笑い方だった。
その音が引くと、また紙の擦れる音に戻る。
右隣で、木下さんが消しゴムを持ち直した。答案用紙の端を指で揃えて、それからシャーペンを置き直す。机の上はほとんど乱れていないのに、その動きだけが少しゆっくりだった。
「水野くん」
「ん?」
「次、どこ出ると思う?」
「…後半じゃない? 内容重いし」
「やっぱり?」
「たぶん」
周りでも似たような声が短く切れて、誰も長くは話さないまま、紙の音だけが少しずつ揃っていく。
前の方で先生の声がして、椅子が一斉に鳴った。
問題用紙が配られるときの音は、朝とあまり変わらないはずなのに、午後の方が薄く聞こえた。受け取る手つきが少し遅い。紙を裏返すまでの間も、朝より長い気がした。
始まってしまえば、教室はまた静かだった。
たまに誰かが紙をめくる。前の方で一度だけ椅子が鳴って、すぐ止まった。窓際のカーテンはほとんど動かない。時計を見るたびに、針だけがやけにちゃんと進んでいた。
書いて、止まって、少し戻る。余白に置いた式を消して、また書き直す。
時計を見るたびに、書いていないところだけ鮮明に見えた。
終わりの声がかかっても、誰もすぐには動かなかった。
一拍遅れて、あちこちでシャーペンが置かれる。前の方では宮本が椅子の背にもたれて、少し上を向いたまま息を吐く。後ろでは岡田が問題用紙を半分に折って、すぐまた開いた。
「いや、無理だろ」
「午後の方がきつくない?」
「分かる」
「なんか、頭止まるよね」
今度は、教室のあちこちで小さく笑いがこぼれた。すぐに止んで、また紙の音が戻る。
僕は問題用紙を重ねて、机の上を見る。午前より、消しゴムのかすが増えていた。シャーペンを置いたまま、手が一度だけ止まった。
右隣で、木下さんが答案を揃えている。
紙の角をきちんと合わせてから、小さく息を吐いた。
「難しかったね」
「うん」
「午後、きつい」
「それはそう」
「まだ明日あるしね」
言ってから、自分で嫌そうな顔をする。
その顔が少しだけおかしくて、僕も少し笑った。
「言わなくていいのに」
「でもあるし」
「あるけど」
前の方で椅子の音が重なった。僕もそのまま鞄に手を伸ばした。
「終わった感、全然ないんだけど」
「今日で全部みたいな顔してたのに」
「してねえよ」
「いや、してたって」
少し長めに笑いが続く。朝よりは声が出ているのに、教室全体が明るいわけじゃない。片付ける音は増えていくのに、まだ範囲表を見たままのやつもいた。
引き出しの中でノートの角が当たる。ファスナーが閉まる。もう立っている人もいる。けれど、そのまま外へ流れていく感じではなかった。
僕は鞄に問題集を入れてから、もう一度だけ範囲表を見た。
残っている教科の欄は、さっきよりさらに減っていた。
それでも、明日のところだけはそのまま残っていた。
「まだ明日あんの、普通に嫌なんだけど」
誰かがそう言って、今度は少しだけ長く笑いが続いた。
笑いが止むころには、また机の上に紙を出しているやつがいた。
窓の外はまだ明るい。




