第25話「押し戻される」
朝の教室は、もう明るいのに、声だけが少し浅かった。
窓の外は晴れていて、廊下側のガラスに白い光が薄く残っている。まだ一時間目の前なのに、机の上にはもう教科書やノートが開いていて、ページの白さばかりが先に目についた。誰かが椅子を引く。少し遅れて、別の席で筆箱の留め具が鳴る。その音が止まる前に、今度は前の方で紙をめくる音が重なった。
「そこ、漢字も入るんだっけ」
「古文の方じゃない?」
「え、どっちだっけ」
そんな声が、教室のあちこちで短く切れる。言い終わると、また紙の音に戻る。
僕は英語のノートを開いたまま、赤で引いたところをもう一度追った。昨日の夜に見たときは、ここまで来れば大丈夫だと思っていたはずなのに、朝になると、覚えたはずの順番だけが少し曖昧になる。単語帳の角が少し丸くなっていて、親指で押さえるとそこだけ手に馴染んだ。
前の方で、誰かが小さく息をつく音がした。
その少しあとで、佐藤さんの声がした。
「佳乃ちゃん、そこもう見る?」
木下さんが顔を上げる。佐藤さんの方を見て、小さくうなずいた。
「……うん。最後にもう一回だけ」
「えら」
「別に」
「いや、えらいって。うちもう英語、だいぶ見ないふりしてるし」
「見ないふりはだめでしょ」
「してない、してない。してないけど、諦めかけてるだけ」
「ほぼ同じじゃん」
そこで佐藤さんが少し笑う。木下さんもつられるみたいに少しだけ笑って、それから先に目を落とした。佐藤さんも「やば」とだけ言って、自分の席へと戻る。前の方でページをめくる音がして、少し遅れて別の列でも紙が鳴った。
後ろの方で岡田の声がした。
「いや、これ昨日のうちに見とけってやつじゃん」
「今それ言っても意味ないだろ」
「分かってるけどな」
「じゃあ言うなよ」
そこで少しだけ笑いが起きる。でも長くは続かなくて、笑ったやつから先にまた下を向いた。
井上は少し遅れて入ってきた。いつもと同じ顔をしているのに、鞄を机に置いてから座るまでの動きだけが静かだった。ノートを出して、開いて、少ししてから僕の方を見る。
「水野、長文のとこ、もう見た?」
「一応」
「すごいね」
「見ただけ」
「それは、まあ、そう」
井上はそのまま目を戻した。僕も開いたままのノートをもう一度見る。さっきと同じ行なのに、前より少しだけ頭に入らない。
窓際の列で、誰かが立ったまま教科書をめくっている。前の方では、机に片手をついたまま確認している人もいる。けれど、チャイムが近づくにつれて、立っている人から順に座っていった。黒板の上の時計を見る顔が何人か続いて、そのたびに教室の音が少しだけ低くなる。
僕は英語の教科書を閉じた。閉じた音が思ったより大きくて、すぐ手を離した。
右隣から小さい声がした。
「水野くん、英作文ってさ」
「ん?」
「最初に書く?」
「……たぶん」
「そっか」
木下さんはそれだけ言って、また手元へ戻った。僕もそれ以上は言わなかった。隣でページを押さえる指だけが少し動いて、すぐ止まる。
前の扉が開く。
立ったままだった人が座る。開いていたノートが閉じられて、紙をしまう音がいくつか重なった。先生が教卓の前で足を止めるころには、さっきまで教室のあちこちにあった短い声だけが先に消えていた。
問題用紙と解答用紙が前から配られていく。
裏返したまま置かれる紙の白さが、机ごとに順番に増えていく。受け取る手つきが、みんな少しだけ早い。教室の明るさは変わっていないはずなのに、紙が並んだだけで、光が少し薄く見えた。
始めの合図のあと、一斉に紙をめくる音がして、それがすぐにばらけた。
最初の数問は、手が動く。書いて、次へ行って、また書く。けれど途中で一度止まる。問題文を読み直しても、さっきまで見ていたはずの言い回しが、そのままでは出てこない。シャーペンを持ち直す。紙の端を指で押さえる。隣や前の気配はあるのに、顔を上げる余裕はない。
消しゴムを置く音がした。少し遠くで紙をめくる音がする。誰かが一度だけ咳をして、そのあとまた何も足されない。
窓の外の明るさは変わっていないはずなのに、机の上だけ時間が早かった。
一問飛ばして、また戻る。余白に小さく書いて、消して、もう一度置き直す。時計を見るたびに、思っていたより進んでいる。頭の中にあったはずの順番が、紙の上に出す前に少しずつ薄くなる。
終わりの合図が鳴る。
その瞬間に軽くなるわけじゃなかった。手が止まって、紙を裏返す音が遅れていくつか重なる。前へ答案を回す腕は動いているのに、誰もすぐには大きな声を出さない。椅子が小さく鳴って、誰かが長く息を吐く。前の方から答案が集められていく間、教室はまだ薄かった。
「……えぐ〜」
どこかで、笑うしかないみたいな声がした。
「いや、それな」
「最後、何かの間違いかと思ったわ」
「間に合った?」
「いや、無理」
「やばすぎだろ、あれ」
そこでようやく、何人かの顔が上がる。短く笑う声が重なった。でも、もう机の中を探る音は始まっていた。
後ろの方で岡田が笑う。
「はい次、次ー。落ち込むの早いって」
「いや、早くはない」
それでも少し笑いが起きる。さっきより明るい。でも、そのまま次の教科書を引っぱり出す音が重なって、会話はそこで薄くなった。
「おまえが一番早いだろ」
宮本の声がして、また少しだけ笑いが漏れる。そのころには、もう何人かが次のページを開いていた。
井上は答案を渡し終えたあと、少しだけ背もたれに寄りかかっていた。
「水野、どう?」
「微妙」
「同じ」
「だよね」
井上はそれだけ言って、机の上の教科書に手を伸ばした。
休み時間は短かった。
さっきまで英語だった机の上に、すぐ別の教科書が開く。ページを急いでめくる音、鞄の中を探る音、椅子を半分だけ引いて立つ音が、前より細かく重なる。答案を出したあとの一瞬だけ空いた机の上は、もう別の紙で埋まりかけていた。
「次、そこ出るかな?」
「先生、言ってはいた」
「図は見といた方がいいかも」
「マジで時間ない」
あちこちでそんな声がして、すぐまたページをめくる音が重なる。立ったまま見ていた人が座って、今度は別の列でノートが開く。さっきまで英語だった机の上から、白い紙だけが順番に入れ替わっていった。
佐藤さんが英語のページを閉じて、別のノートを引き寄せる。
「佳乃ちゃん、そこさ、図だけでも見る?」
「うん」
「葵も見る?」
「見る」
「はい、じゃあ急ぎで」
ノートが机の上を滑ってくる。僕はそれに目を落とした。木下さんはもう次のページを開いていて、必要なところだけ指で押さえている。
「ここ。たぶん、式はこれで大丈夫」
「うん」
「あと、こっち先に見た方がいいかも」
「分かった」
僕がノートを返すと、木下さんは軽く受け取って、そのままページを戻した。佐藤さんも「ありがと」とだけ言って、自分の席でシャーペンを持ち直す。
そこでまた会話は切れた。
窓の外はまだ明るい。夏休みの前みたいな白さが、校舎の向こうに残っている。でも、教室の中はさっきから同じ白さのままで、机の上の紙だけが入れ替わっていた。
黒板の上の時計を見て、誰かが小さく「あ、やば」と言う。
その声のあと、またみんな下を向いた。
休み時間は、もう半分も残っていなかった。




