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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第24話「映りはじめる」

 終礼前の教室は、まだ少しだけ昼の続きみたいだった。


 前の方で笑い声が重なって、誰かが机を軽く叩く音がする。窓から入る風でカーテンがふくらみ、すぐに力をなくす。曇っていた空はまだ白く、向かいの校舎の窓だけがぼんやり明るかった。黒板の端には日直の字が残ったままで、その下では、まだ次のことでもない話が続いている。


 先生が入ってきても、空気はすぐには変わらなかった。


 出席簿を置いて、配る紙の束を教卓に置く。その乾いた音のあとで、前の方の声がようやく少し細くなる。


「はい、これ後ろ回して。期末の範囲表な。失くすなよ~」


 前の列から紙が回り始める。何枚か重なったまま滑る音がして、受け取った先からすぐに目を通す人と、とりあえず机の端に置く人がいる。


 僕のところまで来る前に、前の方で声が上がった。


「え、ちょっと待って、広くない?」

「まだ見てないけど嫌なんだけど」

「古文どこまで?」

「プリントも入ってるじゃん」

「これ、英語正気?」


 笑い声のあとに、紙をめくる音が続いた。前の方で上がっていた声が切れて、机の上へ落ちる視線が、後ろの列まで順に揃っていく。


 紙が回ってきて、僕も受け取った。


 上から順に追っていくだけで、思っていたよりページ数が多い。英語で一度止まって、その下にもまだいくつか並んでいる。


 木下さんが小さく息をつく。


「…多いね」

「うん。思ってたより広い」

「英語、特にね」

「ここで一回やられる」


 木下さんが少しだけ笑う。


「まだ最初なんだけどね」

「見なかったことにしたい」

「それは無理そう」


 そのあとで、先生が前からまた何か言う。提出物のこと、日程のこと、範囲表はちゃんと挟んでおけってこと。教室のあちこちで紙をめくる音が続いていた。窓の外の白さはまだ残っているのに、教室の中では紙をめくる音ばかりが続いていた。


 終礼が終わっても、今日はすぐには椅子の音がまとまらなかった。


 立ち上がる人はいるのに、鞄より先に問題集を出す音が混ざる。引き出しの中を探る音、ページを開く音、範囲表を教科書に挟み直す音。いつもなら廊下へ流れていく足音の方が早いのに、今日は机の上に残るものの方が多かった。


 僕は英語のワークを出して、その上に範囲表を置いた。紙の端が少し浮いていて、机に手を置く度、そこだけがわずかに擦れた。


 少し離れたところで、井上が数学の問題集を開いたまま止まっていた。シャーペンは持っているのに、まだ問題文の上で止まっていて、紙を指で軽く弾く。


「これ、今日やる意味ある?」

「見た瞬間にやる気なくなるやつじゃん」


 近くで少し笑いが起きる。


「でも、いま見ないともっと嫌だろ」

「明日の自分に押しつけたい」

「最低」

「知ってる」


 そういうやり取りが一度だけ広がって、またすぐ紙の音に戻る。誰かが椅子を引いて立ち上がり、別の誰かがまた座り直す。引き戸が開いて閉まるたびに人数は減っているはずなのに、机の上はまだ埋まって見えた。


 僕は英語の範囲をもう一度見た。単語帳、ワーク、教科書。見覚えのあるはずのものが、今日は少し多く見える。向かいの校舎の窓だけが、まだ白く光っていた。


 木下さんがノートを開く。


「水野くん、英語からやる?」

「たぶん。一番重そうだし…」

「やっぱりそうなるよね」

「先に見ると、他まで重く感じるけど」


 木下さんは範囲表を指で押さえたまま、小さく笑った。


「……でも、あとに回すと余計、だしね」

「それはある」


 木下さんはそのまま範囲表をノートの下に少しだけ差し込む。


「古典もだいぶだけどね」

「見えてる」

「見えてるなら、駄目だね」

「駄目だね」


 木下さんが笑うと、そこで一度だけ声が軽く重なった。でも、長くは続かなかった。前の方でも、机に向かったままの声が少し行き来するだけだった。紙の上を指でなぞる動きや、ノートの端を押さえる手の形の方が、声より先に目に入る。


 窓ガラスに、教室の中がうっすら映り始めていた。外はまだ暗くなりきっていないのに、机の上の紙やノートの方が先に目につく。


 廊下の方で足音がして、引き戸が開いた。


「うわ、今日まだ多いな」


 宮本の声が先に入ってきて、そのあとから岡田が続く。岡田は髪が少し崩れていて、シャツの肩の部分だけ皺が寄っていた。まだ部活帰りのままだった。


「ほんとだ。何これ」

「範囲表」

「それか。そりゃ残るわ」


 岡田は自分の席に着いてから、机の上の範囲表にもう一度目を落とした。さっき一度見たはずなのに、少し黙る。


「……こんな広かったっけ」

「見直すと増えるやつな」

「中間の倍くらいない?」


 宮本が笑う。


「いや、倍は言いすぎだろ」

「まぁ多いのは多いな」


 そのまま自分の席の方へ行きながら、宮本が続ける。


「古典も大概だしな」

「英語だけじゃなかったんだな」

「最初に英語見るからだろ、それ」


 それを聞いて、岡田が紙から顔を上げる。


「いや、これ、英語のせいで他まで軽く見えなくなってるだろ」

「たしかに」

「最初に英語見ると終わる」


 そこで井上が、少し遅れて口を挟む。


「もう今日、範囲表見た時点で終わってる」


 宮本が笑って、岡田もつられて笑う。


「それ言うなって」

「でも分かる」

「分かるけど言うな」


 笑いはすぐにほどけて、またそれぞれの机に戻っていく。さっきまで窓の外に残っていた明るさも、もうほとんど壁には届いていなかった。蛍光灯の白さだけが机の上を平たく照らしている。


 宮本は古文の単語帳と英語のノートを机に出して、途中まではちゃんと手を動かしていた。岡田は英語のワークを開いたまま、脚だけ細かく動いている。残っていた人数も少しずつ減っていって、引き戸が開いて閉まるたびに、音が少しずつ薄くなる。


 宮本が先に区切りをつけて帰って、井上も数学を何ページか進めてから鞄を持った。


 最後に残ったのは、僕と岡田だけだった。


 時計を見るより先に、教室の方が先に遅くなっていた。前の方の席はもう暗く、窓際の机の影だけが少し長い。


 岡田は椅子を斜めにしたまま、範囲表をもう一回見直している。机の上には英語のワークとシャーペン、開いたままの単語帳が出たままだった。


「まだやる?」

「…もうちょい」

「えら」

「そっちも残ってるじゃん」

「範囲見たあとにすぐ帰るの、なんか負けた感じする」


 僕はワークのページをめくった。紙が一枚だけ乾いた音を立てる。


「気持ちは分かる」

「だろ。まだ二週間あるのに、急に始まった感じするし」

「紙で出されるとね」

「そう。聞いてたときより重い」


 岡田はそう言って、範囲表を半分に折りかけて、やめた。


 折っても、机の上ではまだ白いままだった。

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