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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第23話「ひらく」

 昼休みの終わり際、教室にはまだ話し声が残っていた。


 細い笑い声が続いて、少し遅れて椅子の鳴る音が混ざる。窓の外は白く明るいままで、開けられた窓のところだけ、カーテンの端がゆっくり動いていた。


 僕は机の上に教科書を出して、右に寄せたノートの端を揃えた。


 佐藤さんの声がして、その近くでまた小さく笑いが重なる。右隣で、木下さんが教科書を開いた。斜め後ろでは井上がもう座っている。


 先生が入ってきても、声はすぐには切れなかった。会話が一拍だけ遅れて止んで、椅子の音がいくつか続いて、それから教室の向きが前へ揃う。


 現代文の時間は、読む声が止む度に、細かい音だけが戻ってきた。


 ページをめくる音。椅子の脚が床を擦る音。窓の外の明るさより、蛍光灯の白さの方が強いこと。


 前の列で当てられた人が一文を読む。先生がその終わりを少しだけ受けて、ページの先へ進もうとして、それからふっと本文から目を離した。


「こういうの、家帰ってからやろうと思っても、たぶんやらないからな」

「今日、学校にいる間にやっとけ。分からなかったら聞きに来い」


 そこまで言って、先生は少しだけ笑った。


「まあ、水野みたいに帰る先生捕まえて『もう帰る感じですか?』は、流石にないけどな」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 先生の方を見たまま、少し遅れて廊下の光景が戻る。放課後、職員室へ向かう途中だった。鞄を持った先生を見つけて、僕はそのまま近づいた。


『質問あったんですけど、もう帰る感じですか?』


 先生は一拍だけ止まって、それから少しだけ笑った。


『いや、帰るだろ』


 言った。たしかに、そのまま言った。


 声が上がって、それが横にも後ろにも広がる。椅子が鳴って、机に手が当たる音が混ざる。


「は?」

「いや、それはないだろ」

「先生に?」

「嘘だろ、おまえ」

「やば」


 一つの声が終わる前に、また別の声が重なる。


「いや、ないないない」


 宮本が笑いながら言う。


「普通それ言わんだろ」


 岡田がすぐ重ねる。


「失礼すぎる」

「そりゃ帰るだろ」


 また別の声が飛んで、笑いが続く。


「『もう帰る感じですか?』って」


 宮本がそこだけ拾って言い直すと、また笑いが弾けた。


「おまえそれマジで言ったの?」

「やばすぎるだろ」

「ないわ、それは」


 男子の声が続けて飛ぶ。その間にも笑いは切れない。何人かが下を向いて、口元を押さえたまま肩を揺らしている。佐藤さんは机に手をついたまま笑って、


「いや、それはないでしょ」


 と言って、また少し顔を伏せた。右隣でも、小さく息が漏れる。木下さんは口元をやわらげたまま少しだけ下を向いて、その肩が一度揺れた。


「…それは強いね」


 少し遅れて、井上がそう言った。その一言で、また笑いが返る。


「質問あったんだよ」


 やっとそう言ったけれど、自分でも少し遅いと思った。


「いや、聞き方だろ」

「そこなの?」

「『もう帰る』はないって」


 また笑いが重なって、教科書の文字が遠くなる。先生はそれを少しだけ見ていたけれど、自分から長く引っ張りはしなかった。


「質問そのものは、別に普通だったけどな」


 そう言って、教科書へ視線を戻す。


「続き読むぞ。次、水野」

「えっ」

「今ので起きただろ」


 もう一度小さく笑いが起きて、僕は開いたままのページを見下ろした。どこから読むのか一瞬分からなくて、指先だけが少し熱を持ったままだった。


 誰かが読んでいる間も、教室のどこかでまだ笑いが残っていた。肩が一度揺れると、それだけでまた別のところでも小さく空気がほどける。僕は教科書を見たまま、同じ行を二回追った。


 チャイムが鳴ると、また笑い声が上がった。


「おまえ、ほんとに言ったの?」

「…言ったけど」

「言ったのかよ」

「いや、そこ否定しろよ」


 また笑いが起きる。


「質問あったんだって」

「だから聞き方だって」

「『もう帰る』はやばいだろ」


 少し遅れて、井上が言う。


「普通に言えちゃうのが強いね」


 佐藤さんが笑いながら首を振る。


「いや、ほんとそれはないでしょ」

「ないかな」

「ないよ」


 また小さく笑いが起きて、誰かが次の授業の教科書を出す。机の上で紙が擦れる。


 放課後になっても、その話は完全には切れなかった。


 終礼が終わると、音はまばらに散っていく。鞄を肩にかける人がいて、まだ席に座ったままプリントを見ている人がいる。いつもの残り方に戻っていくはずなのに、どこか少し軽い。


 僕は英語のプリントを机の上に置いた。右隣では木下さんが教科書を開き直して、斜め後ろでは井上がもうノートに何か書いている。佐藤さんの椅子を引く音がして、また静かになりかけたところで、後ろの方から足音が近づいた。


「まだ言われてんの?」


 岡田の声だった。部活帰りらしく、鞄を片手で持ったまま笑っている。


「言われてるよ」

「そりゃ言われるだろ」


 そのまま自分の席の方へ荷物を置いて、またこっちを見る。


「いや、普通に考えて失礼すぎるって」

「質問あったんだよ」

「だからそこじゃねぇんだって」


 また笑いが起きる。その少しあとで、宮本も入ってきた。鞄を肩から下ろしながら、もう笑っている。


「水野、今日ずっとそれじゃん」

「おまえも言ってただろ」

「言うよ。そりゃ言うだろ」


 宮本はそう言って、僕の机の上のプリントを軽く見た。


「で、ほんとに質問はしたの?」

「した」

「ちゃんとしたんだ」

「そこはね」


 また笑いが重なる。井上が少しだけ顔を上げる。


「質問内容より、そこまでの入りが強いんだよね」

「それ」


 岡田がすぐ返す。


「入り方がおかしいんだよ」

「そんなことないって」

「あるよ」


 佐藤さんが言って、木下さんの方を見る。木下さんはページの端を押さえたまま、少しだけ笑った。


「ないよね?」


 半分くらいは冗談だった。


 木下さんはすぐには答えなかった。口元だけ少しやわらいで、それからこっちを見る。


「……ない、かな」


 少しだけ間があって、また笑いが起きる。


「ほら」

「いや、今ちょっと迷っただろ」

「優しさ入ってたじゃん」


 宮本が言って、岡田がまた笑う。佐藤さんも呆れたみたいに笑っていた。


「でも、ほんとそれはないでしょ」


 言われて、僕はルーズリーフの端を指で押さえた。


「質問はしたかったんだよ」

「そこはみんなもうわかってるって」


 岡田が言う。


「分かった上でないんだろ」

「そうそう」


 少し遅れて、井上の声が入る。


「その上で強い」


 笑いはまた少し続いたけれど、いつまでも同じ強さではいなかった。誰かがプリントをめくり、誰かが筆箱を開き、話しながらでも手だけは動き始める。宮本が僕の机の上の英語のプリントを見て「それ今日の?」と聞いて、岡田が横から「俺まだ出してない」と言う。佐藤さんが自分のノートを開いて、木下さんがシャーペンを持ち直す。


 教室はまた、別の静かさに戻っていった。


 それでも、ときどき誰かの口元だけが思い出したみたいに緩む。僕が顔を上げると、すぐに逸らされることもある。もうさっきみたいな大きい笑いではないのに、完全には終わっていなかった。


 僕は英語の長文の一行目に目を落とした。


 右隣でページをめくる音がする。斜め後ろでは、井上のシャーペンの音が続いている。少し離れたところで、岡田がまた小さく笑って、そのたびに宮本もつられる。


 静かになった教室の中で、そういう音だけが前より少し近かった。

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