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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第22話「寄せただけ」

 終礼の最後、先生は出席簿を閉じたあとで、黒板の端を一度だけ見た。


「学園祭のやつ、気が向いたらでいいから、ちょっと話しといて」


 教室のどこかで、小さく笑いが起きた。

 でも、それだけだった。


 終礼が終わって、音が少しずつ散っていく。前の方ではもう鞄を持って立つ音がして、椅子の脚がいくつか重なって鳴る。誰かの「じゃあね」が廊下へ流れて、引き戸の開く音が続いた。


 ノートを開き直して、さっきまで見ていたところに目を戻す。右隣では、木下さんが問題集のページを押さえたまま、シャーペンの先だけを少し動かしていた。斜め前で佐藤さんがプリントを机の端に寄せて、後ろでは井上がノートを見ている。


 ページをめくる音がして、少し遅れて前の方でファスナーの閉まる音がした。


「これ、最後どうなった?」

「どこ?」

「この式」

「……ああ、そこ。たぶんこれでいいと思う」

「やっぱりそうだよね」


 それだけ言って、木下さんはまた自分の問題集に視線を戻した。白いページの端だけが、蛍光灯の下で少し明るい。


 僕もノートに目を落とす。暫くは、誰も別の話をしなかった。


 少しして、斜め前で紙をめくる音がした。


「これ、助動詞どっちだっけ?

「どれ?」

「『けり』」

「過去じゃない?」

「……あ、そっちか」


 佐藤さんが小さく笑って、プリントを机の上に戻す。


 少し遅れて、井上が顔を上げる。


「古文?」

「うん」

「無理」

「早」


 それで少しだけ笑いが起きて、また静かになる。


 窓の外はまだ完全には暗くなっていなくて、後ろの壁の色だけが少し曖昧だった。誰かが廊下を走る音がして、すぐに遠ざかる。


 佐藤さんが小さく息をつく。


「なんか、今日ちょっとだるい」

「まだ月曜じゃないだけまし」

「それはそう」


 それだけ言って、また少し手が動く。

 シャーペンの先が紙を擦る音が、近くで続く。


 暫くして、佐藤さんがシャーペンを置いた。


「で、さっきのやつ、どうする?」

「……さっきの?」

「学園祭の」

「あぁ、あれか」


 佐藤さんがすぐ笑う。


「忘れてた?」

「まあ、ちょっと」

「一応、なんか出す?」

「まだよくない?」

「でも、何もないのもあれじゃない?」

「何もないなら、それでもいいけど」


 井上が少し遅れて顔を上げる。


「だいぶやる気ないね」

「最初からそんなあるもんでもないでしょ」


 少し間が空く。


 佐藤さんが木下さんの方を見る。


「佳乃ちゃんは?」

「私?」

「うん。なんかないの?」


 木下さんは一度だけ机の上を見て、それから顔を上げた。


「……あんまり大変じゃない方がいい」

「現実的」

「大事だよ、それ」

「かなり大事」


 そう言うと、木下さんがこっちを見る。


「水野くんも、同じこと思ってたでしょ」

「そんなに出てた?」

「ちょっと」


 少し遅れて、佐藤さんが笑う。


「隠せてないじゃん」

「…隠してないし」

「開き直った」


 木下さんは小さく笑ったまま、机の上のシャーペンを指で転がした。


 そのとき、廊下側の引き戸が開いた。


 先に岡田が入ってきて、その後ろに宮本が続く。二人ともいつもの部活帰りのままで、岡田はまだ少し動きが多く、宮本はその横で落ち着いた顔をしていた。


「うわ、まだいた」

「おつかれ、何してんの?」


 佐藤さんがすぐに返す。


「ちょっとだけ。学園祭のやつ」

「もう?」

「別に決めるわけじゃないけど」


 岡田が僕らの机のあたりを見て、少し笑う。


「勉強してる顔じゃなかったもんな」

「おまえ今来たじゃん」

「雰囲気でわかる」


 宮本が鞄を机に置く。


「なんか珍しく輪になりかけてるな」

「まだ、かけてるだけ」

「一番中途半端なやつだ」


 佐藤さんが笑って、「ちょうどいいじゃん」と言う。

 宮本も小さく笑った。


 岡田が空いている机に手をかける。


「これ、ちょっと寄せていい?」

「いいけど、そんなちゃんとやる?」

「ちゃんとはやらん」


 机の脚が床を擦って、小さく鳴る。

 全部を綺麗に動かすわけじゃなくて、少しだけ間が詰まる。ノートもプリントも、そのまま机の上に残っていた。


 岡田は座る前から言った。


「食べもん系が一番楽じゃね?」

「急に本音だな」

「最初から本音だけど」


 宮本が椅子を引きながら、少しだけ笑う。


「最後までそれで押す気?」

「楽なの大事だろ」

「大事だけど、だいぶ雑だよね」


 佐藤さんがそう言うと、岡田は肩をすくめた。


「でも絶対、みんなそこ気にするじゃん」

「まあ、それはそう」

「水野、お前もこっちだろ」

「うん、そっち」

「早」


 井上が少し遅れて口を挟む。


「認めるの早いね」

「否定することでもないし」


 少し笑いが起きる。


「ていうか、毎年どういうのあるの?」

「知らん」

「早」

「知らんもんは知らん」


 岡田が即答して、宮本が横から拾う。


「そこまで堂々と言われると、逆にいいな」

「褒めてないだろ」

「半分くらいは」


 井上がノートを閉じる。


「調べれば出るんじゃない?」

「今?」

「今じゃなくても」


 佐藤さんが机に肘をつく。


「でも、なんか、ほんとに出すだけでも決めといた方がいい気はするんだよね」

「それはある」

「あるんだ」

「何もないままの方が、あとで面倒だし」


 岡田がこっちを見る。


「水野、面倒基準なの正直でいいな」

「そこ以外ある?」

「ないのかよ」


 宮本が少し笑う。


「岡田と水野、方向ちょっと似てるな」

「え、一緒にしないで」

「そこだけ拒否るじゃん」


 笑いは長く続かなかった。

 でも、さっきまでより教室の空気は少しだけ近い。机の位置が中途半端にずれて、その間に残った声が、まだ完全には散っていない。


 佐藤さんがプリントを重ね直す。


「まあ、今日決める感じでもないか」

「うん」

「そもそも今、何も出てないし」


 井上のその一言で、また少しだけ笑いが起きる。


 岡田が椅子にもたれたまま言う。


「じゃあ次までに誰か天才案持ってきて」

「おまえが出せ」

「俺は楽なやつ担当だから」

「担当制なんだ」


 宮本が立ち上がりかけて、ずれた机を手で少しだけ戻す。


「まあ、またでいいだろ。ちょっと話しただけでも十分じゃない?」

「それはそうかも」


 木下さんが小さくうなずく。


「……うん」


 その声のあと、誰もすぐには続けなかった。


 机の上には、開いたままのノートと、少し斜めになったプリントが残っている。

 さっきまで勉強していたはずなのに、今はその続きとも違う空気が、教室の真ん中あたりに薄く残っていた。

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