第21話「端に残る」
朝の黒板は、まだ一日のものになりきっていなかった。
一時間目の連絡が端に寄せて書かれていて、その下に日直の名前がある。消したあとの白い筋が薄く残っていて、その横の字だけ、少し新しかった。
鞄を机の横に掛けてから、もう一度見る。
「学園祭」。予定表の端にあるその字だけ、他の連絡に混ざっているのに、上手く流れていかなかった。
前の方で椅子が鳴った。誰かがプリントを机に置く。窓際ではカーテンがふくらんで、戻るときに窓枠へ軽く当たった。
右隣で、木下さんが筆箱を開く。シャーペンを一本出して、黒板を見て、すぐに手元へ目を戻した。
前の列で、佐藤さんが小さく言う。
「もう出るんだ」
少し離れたところから声が返る。
「まだ先じゃね?」
岡田は座らないまま、机に片手をついていた。
「でも、書いてあると、なんか」
「まあ、わかる」
そこで切れた。
ページをめくる音がして、前の方でまた別の話し声が重なる。朝の教室はいつもと同じで、黒板の右上だけが少し残った。
ノートを出して、ページの角を揃える。紙の端が指に微かに引っかかった。
チャイムが鳴って、椅子の音がいくつか重なる。前の方の騒めきが一旦引いて、教室の向きが揃う。
授業が始まると、朝の空気は別の形になる。ページをめくる音と、板書を写すシャーペンの音が、教室の中で同じくらいの高さに揃う。ときどき誰かが椅子を引き直して、窓の外では風が木を揺らしていた。
それでも、顔を上げた拍子に黒板の隅が目に入るたび、あの字だけは残っていた。
休み時間になると、また少しだけその話が出る。
「何やるんだろうね」
「まだ全然でしょ」
「でも、気になる~」
短いまま流れて、すぐ別の話に混ざる。提出物のこととか、小テストのこととか、昼どうする、みたいな、いつものやつに押されて消える。
その消え方ごと、今日は少しだけ目についた。
昼休みが近くなるころには、黒板の字そのものより、そのあとに教室へ残る感じの方がはっきりしていた。
弁当の袋を開ける音と、椅子を引く音で、教室は少しずつほどけていく。前の方から立つやつがいて、声の向きが廊下へずれる。窓際ではまだ座ったままの人もいて、教室の真ん中だけが先に空いた。
岡田が振り向く。財布だけ持っていた。
「行く?」
「行く」
僕が立つと、宮本も椅子を引いた。井上は少し遅れて立ち上がって、机の上のペンを筆箱に戻す。
前の扉が開いて、廊下の明るさが床に薄く入る。
「今日、多そうだな」
「毎日言ってる」
「言ってるかも」
岡田が先に歩き出して、宮本がその横につく。井上がそのあとをついて行く。僕も席を離れる前に、なんとなく黒板を見る。朝と同じ場所に同じ字があって、昼の光だと少しだけ頼りなく見えた。
廊下へ出ると、教室の音が一段後ろに下がった。
階段の手前で少し詰まって、岡田が立ち止まる。
「水野、ああいうのちゃんと考えそう」
「何それ」
「いや、なんか」
「雑だな」
「でも、わかる」
岡田が先に笑って、僕の横で井上が少しだけ息を漏らすみたいに笑った。宮本も少し遅れて笑う。
「それ、褒めてないだろ」
「半分くらいは」
「半分かよ」
また前が動いて、列がほどける。そこで会話も切れた。
券売機の前まで来ると、話はもう別のところへ流れていた。食券が落ちる音。トレーの縁が触れる音。返却口の向こうで重なる食器の音。さっきまで教室にあった字も、その辺でいったん見えなくなる。
昼休みの終わりに教室へ戻ると、黒板の字は朝と同じまま残っていた。
誰かが書き足した形跡も、消した形跡もない。そこだけ時間が動いていないみたいで、でも教室の空気は昼をまたいで少しだけ緩んでいた。
午後の授業は、朝より長く感じた。
眠いわけじゃないのに、窓の外の白さだけがゆっくりして見える。問題を解いて、顔を上げて、また書く。その間に、椅子を引く音や、誰かが消しゴムを落とす音が小さく混ざる。
木下さんは授業中、ほとんど前を向いたままだった。たまにノートの端を押さえる指先だけが目に入る。佐藤さんは先生の言葉に合わせて少し速めに手を動かしていて、井上は途中で一度だけペンを止めたまま窓の外を見ていた。
その話は、教室のどこにも落ち着かないまま残っていた。
終礼が終わると、音がまばらに散っていく。鞄のファスナー、椅子を戻す音、誰かの短い「じゃあね」が、教室の端から順にほどける。
僕はすぐには立たなかった。
終礼が終わっても、すぐには立たない人が何人かいる。
それだけで、放課後の形はだいたい決まる。
放課後の教室は、朝より黒板が近かった。
外はまだ明るくて、机の端に白っぽい光がのっている。
「結局、何やるんだろうね」
佐藤さんがプリントから顔を上げる。すぐには誰も返さない。
ページをめくる音がひとつして、それから木下さんが顔を上げた。
「まだ決まってないんじゃない?」
「だよね~」
そこでまた少し空く。
井上がノートに目を落としたまま言う。
「それはそれとして気になる」
佐藤さんが笑う。
「うん。そう、それ!」
僕も黒板を見る。
朝からずっと、あの端の字だけは、見えたり見えなくなったりしていた。
会話はそのまま別のところへほどけて、紙の擦れる音だけが薄く残った。誰かが問題集をめくって、前の方で消しゴムのかすを払う音がする。窓から入る風は強くないのに、カーテンの端だけがときどき揺れた。
少しして、後ろの扉が開く。岡田と宮本だった。部活のあとの空気が、そのまま教室の中へ入ったみたいに、密度が少しだけ変わる。
「まだいる」
「そっちもな」
岡田が鞄を机に置く。宮本は近くの机に手をついたまま、教室の中を見た。
「なんか静かだな」
「さっきまで喋ってた」
「一番いいとこ見逃したな」
佐藤さんが少しだけ笑う。
「別にそんな大したこと話してないよ」
「それはそれで気になるけど」
宮本がそう言って笑うと、岡田が横からプリントを一枚めくる。
「何の話だったの?」
「大したことじゃないって」
「それ言われても分からんだろ」
そこでまた小さく笑いが起きて、でもすぐに散った。木下さんはまた教科書に目を落として、井上はノートの端を指で押さえたまま何も言わない。
黒板の端には、朝と同じ字がまだあった。消しきれていない白い線の上に、その部分だけ新しく置かれている。教室の中ではもう別の話が始まっていて、笑い声も小さく混ざっていたのに、そこだけは残ったままだった。
僕はシャーペンを机に置いて、一度だけ背もたれに体を預ける。
消しきれていない白い線の上で、その字だけがまだ新しかった。




