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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第20話「続いてきたもの」

 朝の教室には、開いた窓の気配が残っていた。


 白く曇った明るさがそのまま入ってきて、一番後ろのカーテンの端だけがときどき浮く。前の方ではプリントが回っていて、紙の擦れる音が何度も続いた。椅子を引く音も、鞄を机に置く音も、朝の騒めきの中で少しずつ馴染んでいく。


 僕は鞄を机の横に掛けて、席に座った。


 井上はノートを出したまま、まだ何も書かずにシャーペンを指の間で回している。後ろの方では岡田が何か言って、宮本にすぐ返されていたけれど、そこまでは聞き取れなかった。


 黒板の上の時計を見る。まだホームルームまでは少しある。


「なんか今日、べたつかない?」

「わかる」

「雨じゃないのにね」

「中途半端だよね~」


 前の方でそんな声がして、小さく笑いが起きる。提出物の話がその横で始まって、少し離れたところでは昨日のテレビの話が続いていた。繋がっていない会話がいくつもあるのに、教室の中ではちゃんと一つの朝になっている。


 佐藤さんが振り向いた。


「葵、英語のやつ出した?」

「…まだ」

「やっぱり」

「何、その確認?」

「なんとなく」


 右隣で、木下さんが教科書の端を揃えながら少しだけ笑った。


「まだなんだ」

「その言い方」


 そこで井上が顔を上げる。


「まぁ水野ってそんな感じだし」

「井上まで言う?」

「言う」


 少し遅れて、後ろの方で岡田の声がした。


「もう決定じゃん」

「多数決でもないけどな」


 宮本がすぐに返して、小さく笑いが混ざる。前の方で椅子がひとつ鳴って、先生が入ってくる。立ったままだった日とが座って、開きかけた鞄が閉じる。黒板にチョークが当たる乾いた音で、教室の向きが揃った。


 さっきまでの声が、そこで一つ奥へ引く。


 黒板を写す音が続いて、ページをめくる音が混ざる。前の方で消しゴムが落ちて、短いやり取りがあって、また元に戻る。岡田は何度か脚を揺らして、その度に宮本が横目で見る。井上は静かなまま手を動かしていて、木下さんは黒板とノートを何度も見比べながら、同じ速さで書いていた。少し前では、佐藤さんが一度だけシャーペンを止めて窓の方を見て、それからまたノートに戻った。


 四時間目の終わりが近づく頃には、教室の空気が先に緩み始めていた。まだ先生が話しているのに、教科書の端に指をかけるやつがいて、窓際ではもう少しだけ体の向きを変えているやつもいる。


 チャイムが鳴る。


 立ち上がる音が重なって、昼休みの流れが一気にできた。


 後ろから机を軽く叩かれた。


「行く?」


 岡田はもう半分立っていて、宮本もこっちを見た。井上も少し遅れて椅子を引く。


「今日は早めのがいいかも」

「たしかに」


 椅子を戻す音がまた重なって、前の方から人の流れができる。

 僕らも少し遅れて、その流れに混ざった。


 廊下はもう、昼休みの足音で少しだけ狭かった。


 食券のボタンを押す音が、続けていくつも鳴っていた。


 昼の学食は、まだ席に余裕があるのに、空いている場所を探す目だけは忙しない。トレーの縁が触れ合って、味噌汁の蓋が一つ鳴る。返却口の方では、先に食べ終わったらしい上級生の食器の音が重なっていた。


 トレーを置く音が続いて、座ったそばから別々の話が始まる。まだちゃんと一つにはなりきらないまま、近いところの声だけが少しずつ混ざっていった。


 岡田が皿を見て、箸を止めた。


「…多くね?」

「おまえそれ毎回言ってない?」

「今日はほんとに多い」

「おまえがそれ選んだんだろ」

「いや、今日は違うって」


 すぐ近くで笑いが起きる。


「絶対足りんって言うやつの量じゃん」

「今日は信じていい」

「毎回違うな、それ」


 井上は味噌汁をひと口飲んでから、岡田の皿を見た。


「でも、たしかに多いかも」

「井上までそっち?」

「いや、ちょっと多い」


 宮本がそれを聞いて少し笑う。僕は箸を持ち直しながら、トレーの端に寄ったキャベツを見たまま口を開いた。


「午後なんだっけ?」

「英語」

「あー…」


 そう言ったのは僕だけじゃなかった。少し離れたところでも同じような声がして、誰かが「それな」と重ねる。


 岡田はもう食べ始めていた。


「しかも当ててくるじゃん、あの人」

「読ませるやつ?」

「そう、それ」

「岡田、この前止まってたよな」

「止まってない」

「いや、止まってたって」

「ちょっと考えてただけだし」


 宮本が味噌汁をひと口飲んで、こっちを見る。口元が少しだけ緩んでいた。


「結構長かったけどな」

「宮本まで言う?」

「でも、水野のほうが危なそう」

「なんでよ」

「英語の教科書、たまに開くの遅いから」

「見られてるね」

「そこ見ないでよ」

「みんな見てるって」


 笑いが重なったところで、別の声が割って入る。


「次、提出あったっけ?」

「英語はない」

「古文もなかったはず」

「数学じゃなかった?」

「それ明日じゃね?」


 話が少しずつずれていって、どこが最初だったのか分からなくなる。トレーの上では箸だけが進んでいて、誰かが唐揚げを落としかけて、小さく笑いが起きた。


 岡田はさっき多いと言っていたわりに、もう半分以上食べていた。宮本がそれを見て、また少しだけ笑う。


「岡田、食うのだけは早いよな」

「だけって何だよ」

「そこ拾うんだ」

「いや、早いって」

「水野よりは」

「また俺かよ」

「基準にちょうどいいじゃん」

「よくない」


 近くで箸が鳴って、誰かが水を取るために立ち上がる。


「井上もまぁまぁ早いよな」

「気づいたら終わってるときあるよね」

「静かだから気づかないだけじゃね?」

「何それ」

「ちょっと分かる」


 その一言でまた笑いが重なった。返却口の方で食器のぶつかる硬い音がして、先に食べ終わったやつが何人か立っていく。


 岡田が水を飲んでから、少しだけ顔をしかめる。


「午後、体育だったらまだよかったのに」

「英語よりはな」

「おまえ体育のとき、妙に元気だもんな」

「当たり前だろ」

「この前も声だけ出てたし」

「無駄にうるさかったよな」

「無駄じゃねえし」

「何の競技でも声だけ一番出る」

「全部必要だから」

「広」

「広すぎるだろ」

「万能型じゃん」

「言い方よ」


 別のところではもう提出物の話に移っていて、その横では部活のことを言っている。全部が綺麗には繋がっていないのに、どこかで同じ昼休みの続きになっていた。


 岡田が最後のひと口を押し込んで、箸を置く。


「やっぱ多かったわ」

「食いきってから言うなって」

「いや、ぎりぎり」

「全然ぎりぎりじゃなかった」

「見てる側はそう言うんだよ」


 その言い方に、近くでも少し離れたところでも笑いが重なった。返却口の方で食器の音が続いて、席を立つやつが少しずつ増えていく。


 午後は、思っていたより早く過ぎた。

 黒板の字が何度か入れ替わって、机の上の紙だけが少し増えた。


 終礼が終わり、音がまばらに散っていく。

 各々が、予定されたように行動する。


 僕は机の右端に英語のプリントを寄せて、その下に敷いていた数学のワークを引き出した。ルーズリーフが少しだけずれて、消しゴムが机の中央まで転がる。


 少し前の席で、佐藤さんが古文の問題集を開いたまま止まっている。右隣では、木下さんが英語のワークを開いていた。井上は少し離れた席で、数学のプリントを机に広げている。


 佐藤さんが顔を上げた。


「それ、もう英語終わった?」

「まだ」

「え、でもワーク出してるじゃん」

「先にこっち見ようかと思って」

「ずる」


 佐藤さんが問題集をぱらぱらめくる。途中で挟んでいた赤シートが落ちかけて、慌てて押さえた。


「うち、これ終わる気しないんだけど」

「どれ?」

「古文のやつ。開いた瞬間もう嫌」


 右隣で、木下さんが少しだけ笑う。


「それは分かる」

「佳乃ちゃんも?」

「うん、見るだけでちょっと疲れる」

「それそれ」


 井上が数学のプリントを一枚めくる。


「数学もそう」

「井上まで」

「式多いと、ちょっと閉じたくなる」

「それはある」


 近くで椅子が鳴って、誰かが鞄を肩にかける。前の方ではまだ別の話が続いていて、窓際で上がった笑い声はすぐに小さくほどけた。


 佐藤さんが問題集を閉じきらないまま、今度は僕の机の上を見る。


「ワークどんな感じ?」

「まだ最初のほう」

「そっちのほうがまだマシじゃない?」

「う~ん、英語よりかはマシかも」

「それはそうかも」


 右隣で、木下さんがワークの端を指で押さえる。


「数学って、ダメな日は最初の一問で止まるよね」

「ある」


 佐藤さんがすぐに頷いて、開いたままの問題集に目を落とした。


「今日ちょっとそれ」


 井上はプリントから目を上げた。


「わかる」


 僕はワークの最初のページを見たまま、少しだけ笑う。


「さっきから全然進んでないし」

「ひど」


 そこで木下さんが少し遅れて口を開く。


「でも、そういう日あるよね」

「そう言ってもらえると、ちょっと救われる~」


 木下さんは少しだけ笑って、視線を戻した。


「じゃあ先に英語やろうかな」

「えら」

「偉いでしょ」

「自分で言うんだ」

「言うよ」

「まぁ、やるなら偉い」

「でしょ」


 井上が小さく笑って、またプリントに目を落とす。


 僕もワークを手前に引いた。右隣で木下さんがページをめくる。前の方ではまだ別の話が続いていて、窓際で上がった笑い声はすぐに小さくほどけた。


 少しして、後ろの方で机が引かれる音がした。教室の戸が一度だけ開いて、廊下の音が薄く入る。誰かが帰って、また別の誰かが残る。音は減っているのに、途切れた感じはしなかった。


 そのあとで、後ろの戸がもう一度開く。


「まだ結構いるな」


 岡田の声だった。少し遅れて、宮本も入ってくる。


 佐藤さんが顔を上げて、少しだけ笑う。


「おそ」

「部活だし」

「それはそう」


 宮本が鞄を机に置く。


「まだやってたんだ」

「まあ、帰ってもやらないし」


 岡田が小さく笑う。


「岡田は?」

「今から」

「まぁ、だろうな」

「うるさい」


 僕はワークに目を落とした。右隣で木下さんがページをめくって、その少し前で佐藤さんがまたシャーペンを動かし始める。井上のプリントをめくる音が重なって、後ろでは鞄を置く音がした。


 教室の中の時間だけは、まだ切れずに続いていた。

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