第18話「同じ方を見る」
体育館に入ると、空気が少しだけ重かった。
床のワックスの匂いと、開けたままの扉から入る外の風が混ざっている。朝の教室よりずっと騒がしいのに、声は高い天井の方へ抜けていって、足元の方だけが広く感じた。どこかで笛が鳴って、その少しあとに、別のコートから上がった声が遅れて返ってくる。
コートの端には、トーナメント表を貼った紙があった。
そこだけ人が溜まっている。しゃがんで見ているやつもいれば、後ろから首だけ伸ばしているやつもいる。勝った方に線が伸びていくだけの簡単な表なのに、こういうのは立ち止まるやつが多い。
「次どこ?」
「男子バスケ、もうすぐ」
「女子バレーも一回戦入ってるって」
「うち何組と当たる?」
「見えん見えん、押すなって」
前の方でそんな声が重なって、そのたびに紙の前の人だかりが少し揺れる。
うちのクラスの場所は、その紙から少し離れたコート脇だった。
最初からきれいにはならない。胡坐をかいてるやつ、膝を立ててるやつ、後ろに手をついてるやつ、まだ座らずに立ったままトーナメント表を見てるやつもいる。白い体操服と紺のハーフパンツが床の木目の上にばらけていて、教室にいるときよりみんなずっと雑だった。
僕も空いているところに座った。
床は思ったより硬くて、胡坐をかくと足首の骨が少し当たる。少し前で、岡田が落ち着きなく膝を揺らしていた。床に手をついて座り直して、また前を見る。
「おまえ、まだ出てもないのに動きすぎだろ」
「いや、でも普通に楽しみなんだけど」
「それはわかる。…見てるこっちまで落ち着かなくなるけど」
「何だそれ」
井上が少しだけ岡田の方を見た。
「さっきからずっと動いてるしね」
「見すぎだろ」
と岡田が返して、少し笑った。
少し遅れて、井上がまた言う。
「男子バスケ、勝ったら次三組みたい」
「もうわかったの?」
「さっき前で言ってた」
「早。じゃあ女子は?」
「そっちはまだ見てない」
「中途半端だな」
宮本が笑って、また少し笑いが起きた。
その少し前で、佐藤さんが何人かに囲まれて笑っていた。呼ばれて振り向いて、手を上げて、また別の声に返す。少し離れた横には木下さんもいて、紙の方ではなくコートの方を見ていた。
体育館の中では、男子バスケと女子バレーがそれぞれ進んでいた。
バスケのコートでは、靴底が床を擦る音とボールの弾む音が重なる。バレーの方はまだ試合の前で、ネットの近くに何人か立ったまま、髪を結び直したり、手首を回したりしていた。
男子バスケの一回戦が始まる頃には、前の方からもう声が出ていた。出るやつらが立ち上がると、座ったままだったやつらまで少しずつ前を見る。
岡田もそこで立って、体操服の裾を引いてから軽く肩を回した。宮本はその少し後ろで立ち上がって、いつもよりほんの少しだけ口元がゆるんでいる。
「岡田、怪我すんなよー」
そう言うと、岡田が振り向いた。
「おまえ、それ応援の最初に言うこと?」
「大事でしょ」
「縁起でもないわ」
その横で宮本が笑って言う。
「でもおまえ、変なとこで転びそうではある」
「宮本まで言う?」
「いや、ちょっと思った」
前の方にいたやつらもそこで笑って、
「言っとくけど転ばんからな」
と岡田が返したところで笛が鳴った。
試合が始まると、思っていたよりずっと速かった。
ボールの弾む音と靴底の擦れる音が重なる。誰かが抜いた瞬間に「おっ」と声が出て、その次のパスでまた別のやつが叫ぶ。一本決まりそうになるたびに、空気がまとめて前へ寄る。
「いけるいける!」
「うわ、今の惜し〜!」
「ドンマイドンマイ!」
男子の声は、普通にうるさかった。立ち上がるやつもいるし、座ったままでも手を叩くやつがいる。プレーが止まるたびに声が重なって、また笛で前を向く。
岡田がボールを取って、そのまま速く前へ出る。
「いけ岡田!」
「そのまま!」
「うわ、入れろ入れろ!」
声が一気に重なる。外したらそのまま笑われるくらいの勢いで、でもみんな本気で見ていた。
シュートが決まった瞬間、うちのクラスからまとめて声が上がった。
「うおーー!!」
「ナイシュー!!」
「やるじゃん岡田!」
「デカいって今の!」
拍手が一気に広がって、座ったままだったやつまで前に身を乗り出す。コートの中の岡田が一瞬だけこっちを見て、少しだけ口元を上げる。
「得意げになるなよー」
と僕が言うと、
「なってねえよ!」
と岡田が走りながら返して、近くでまた笑いが起きた。
その少しあとで、宮本が相手のボールを止めた。派手じゃないのに、流れだけがはっきり変わる止め方だった。
「うわ、今のうま」
「宮本ナイス!」
今度は岡田が振り向きざまに何か叫んで、宮本が笑ったまま手を上げる。
試合が終わると、前の方から一気に崩れた。
「おつかれー!」
「岡田、今のはちょっとかっこつけてたな」
「は?」
「最後のやつ。ちょっとだけな」
「入ったんだからいいだろ」
「まあ、よかったけど」
と宮本が笑う。
「最初ちょっと危なかったけどね」
「そこ見んなよ」
と岡田がすぐ返す。
「ちゃんと見られてるね」
と井上が少し遅れて言って、笑った。
その間にも、トーナメント表を見に行ったやつが戻ってきて、
「次、三組」
と近くの何人かにだけ言う。その声がまた少しずつ広がっていく。
その間に、今度は女子バレーの方で笛が鳴る。
「始まった」
と誰かが言って、さっきまで男子バスケに声を出していたやつらまで、今度はそっちを見た。
佐藤さんはコートの中にいた。
最初からよく動いていて、一本続くたびに前へ出る。大きく目立つわけじゃないのに、次にどこへ入るかの動きが早い。
「佐藤、いいじゃん」
と近くで誰かが言う。
「うわ、今の拾ったのすご」
と別の声が重なる。
僕の少し前で、木下さんもコートの方を見ていた。立ち上がるわけじゃないけど、ボールが続くたびに目線が動く。
「今のよかったね」
と僕が言うと、
木下さんは一拍置いてから、
「うん。ちゃんと繋いでた」
と返した。
そのあとで、少しだけ口元がやわらぐ。
「沙希ちゃん、ああいうの上手い」
その言い方だけで、ずっと見ていたのがわかった。
佐藤さんがレシーブしたボールが高く上がって、そこからもう一本繋がる。
「ナイス!」
「いけるいける!」
「今のいいって!」
女子の列の方から、少し高い声が重なる。
「沙希ちゃん、いいよー!」
「今の落ち着いてた!」
「いけるいける、もう一本!」
返ったボールが相手コートの奥に落ちると、男子の方からも
「うお、佐藤ナイス!」
「やるじゃん佐藤!」
と声が飛ぶ。拍手の方が少し遅れて広がって、前の方で誰かが立ち上がった。
試合が終わるたびに、トーナメント表の前に行くやつが増える。見に行って、戻ってきて、「次まだある」「もう一個勝ったら上」「女子まだ残ってるらしい」みたいな声があちこちで繋がる。そのたびに、さっきまで別の方を見ていたやつまで、またこっちへ顔を向ける。
「水野くん」
前の方から木下さんの声がした。
試合の合間で、座ったままこっちを向いている。
「次、女子バレー、四組らしい」
「見たの?」
「うん、さっきね」
そのあとで、少しだけ口元がやわらぐ。
「結構強いらしい」
「急にちゃんとした情報だ」
木下さんは一拍置いて、
「ちゃんとしてるでしょ?」
と返した。
それで終わるかと思ったら、少しだけ視線をこっちに戻して、
「水野くんも見に行けばよかったのに」
と言う。
「いや、別にそこまでじゃないし」
「さっき結構気にしてるように見えたけど?」
返しが早くて、少しだけ詰まる。
「……勘違いじゃない?」
そう言うと、木下さんは少しだけ笑って、また前を向いた。
その少し向こうで、岡田がもう「四組?」「強いの?」と騒いでいた。宮本が笑いながら何か返していて、井上はその横で少し遅れて混ざっている。
勝った負けたは、その場ではすぐ薄くなる。けれど、試合の最中の声だけはちゃんと残る。誰かが叫んで、誰かが笑って、次の一本でまた前を見る。
体育館の中は、ずっと明るかった。
照明の白さ、床の線、遠くの笛、近くの拍手。ばらばらに座って、ばらばらに喋っているのに、うちのクラスの試合になると、誰に言われるでもなく視線が集まる。
朝の教室の延長みたいで、でも同じではなかった。まとまっているわけじゃないまま、声だけが揃っていく。
別のコートでまた拍手が起きる。トーナメント表の方へ走っていくやつがいて、戻ってきたやつが大きい声で何か言う。端の方でも笑いが起きて、また次の試合の方へ目が向く。
そのとき、クラスの輪郭が少しだけ見えた気がした。




