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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第17話「まとまらない朝」

 朝の教室は、まだ始まっていない音がしていた。


 前の方で紙の擦れる音がして、誰かの声が重なる。笑い声は大きくないのに、話の向きだけが後ろまで届く。窓際の列では椅子がひとつ鳴って、すぐに止まった。


 僕は鞄を机の横に掛けて、自分の席に座った。


 右隣で、木下さんが筆箱を開いたまま、シャーペンを机の端にそろえている。教科書はもう出してあって、白いページの端だけが蛍光灯に薄く光っていた。


 前の方で、佐藤さんの声がした。


「これ、誰が出るの?」


 紙を持ったまま、近くの机に半分寄りかかっているのが見える。その声に何人かが顔を上げた。


 後ろで椅子が鳴る。


「もう決まってるんじゃね」


 岡田の声だった。座ったままなのか立ちかけなのか、そっちを見なくても落ち着いていない感じだけはわかる。


「決まってるって何」

「何となく」

「雑」

「いや、でも俺は出ない方向で」

「方向って何」


 近くで笑いが起きた。


 少し遅れて、後ろから宮本の声が混ざる。


「いちばん最初に逃げるやつじゃん」

「逃げてないって。まだ決まってないし」

「今のでだいぶ決まっただろ」


 また笑いが広がる。紙の端がぱた、と鳴って、誰かが名前を読み上げかけてやめた。


 井上は少し離れた席で、前を向いたまま頬杖をついていた。会話に入るでもなく聞いている顔で、少ししてから言う。


「出る人、もう少し嫌そうでもいいと思う」

「井上、それ今言う?」


 佐藤さんがすぐ返して、近くでまた小さく笑いがほどける。


 右隣で、木下さんの手が止まった。筆箱のふたに指を置いたまま、前の方を見る。


「まだ決まってないの?」

「全然」


 佐藤さんが紙を少し持ち上げる。


「佳乃ちゃん、見て。これ、ほんとに進んでない」

「ほんとだ。まだ全然だね」

「そうなんだよ~。全然まとまらなくて…」


 木下さんの口元がわずかにゆるむ。


 また紙が鳴って、名前がいくつか上がって、すぐ別の話に流れていく。出るやつ、出ないやつ、運動できそうなやつ、押されたらそのまま出そうなやつ。話はまとまりそうでまとまらないまま、机のあいだを行き来していた。


 右隣で、筆箱の閉まる小さな音がした。


 木下さんが前を向いたまま言う。


「水野くん、出るの?」

「出ない」

「よかったね」

「うん」


 少ししてから、木下さんが言った。


「さっきも、そういうこと言ってた人いたね」

「誰だっけ」

「誰だろうね」


 それで、僕も少しだけ笑った。


 佐藤さんの声はまだ続いていて、後ろでは岡田が何か言い返している。宮本が短く返して、その外側で井上がまた一言だけ混ざる。教室の音はまだ散ったままで、どこにもきれいに揃っていなかった。


「男子、なかなか決まらないね」


 紙を見たまま、佐藤さんが言う。


 紙の端が机に当たって、ぱた、と鳴る。何人かがのぞき込んだまま、まだ何か言い合っている。


 少しして、佐藤さんがこっちを振り向く。


「葵って、こういうの絶対出ないよね」


 急に名前が出て、近くの何人かがこっちを見た。


「出ない」

「即答じゃん」


 すぐあとに、井上の声が入る。


「今のは速かったね」


 僕はそっちを見る。


「何それ」

「珍しく判断が速い」


 近くで小さく笑いがほどける。


 後ろで椅子が鳴った。


「だから最初に言ったじゃん。こいつは出ないって」


 岡田の声だった。


「お前がいちばん信用できないんだよ」


 少し遅れて、宮本が返す。


「何でだよ」

「自分が出ない方向とか言ってたし」


 そのあたりでまた笑いが起きる。岡田が何か言い返して、声が二、三人分重なった。最後の方はよく聞き取れなかったけれど、まだ決まりきっていないことだけはわかった。


 少しして、右隣で木下さんが言った。


「でも、水野くん、押されたら出そう」

「……いや?」

「今の間は?」


 声が少しだけやわらいでいた。


 僕はそっちを見たけれど、木下さんは前を向いたままだった。机の上の筆箱はもう閉じられていて、その横に置いたシャーペンだけが少し斜めになっている。


 名前が一つ上がるたび、まわりの声も少しずつ形を変えた。


「いや、だからそれは違うって」

「違わないって。ちょうどいいじゃん」

「ちょうどいいで決められる側が嫌なんだよ」


 岡田がそう言って、また何人かが笑う。すぐあとで宮本が何か返して、その声に別のやつの声が重なった。決まりかけるたびに少しだけ崩れて、同じ話が何度も机のあいだを往復しているみたいだった。


 黒板の上の時計を見る。まだ始業までは少しあるはずなのに、教室の中だけ時間の進み方が違っていた。


 右隣で、木下さんがシャーペンを持ち直す。もう話には入っていないのに、あのあたりのやり取りだけは聞いている気配がある。


 井上は頬杖をついたまま、さっきからほとんど何も言わなかった。たまに視線だけ前へ向いて、またすぐ戻る。その少し外で、岡田の声だけが途切れずに続いていた。


「じゃあもう宮本でいいじゃん」

「何でそうなるんだよ」

「まとまりそうだから」

「理由が雑なんだよ」


 また笑いが起きる。


 誰かが机を引いて、床の上で脚が短く鳴った。その音に混ざるみたいに、廊下から別のクラスの声が一度だけ近づいて、すぐ遠ざかる。教室の中のざわめきはそのままだった。


「とりあえず、あと一個だけなんだけどね」


 佐藤さんの声がする。


「その一個が決まんないんじゃん」

「今それ言わなくていいでしょ」


 また笑いがほどける。


 僕は机の上のノートに手を置いたまま、前を見る。誰が出るとか、誰なら押せば行きそうとか、そういう話をしているだけなのに、教室の空気はいつもより少しだけ軽かった。まだ何も始まっていないのに、始まる前の方へみんなの目だけが少しずつ向いている。


 でも、まだ揃ってはいなかった。


 また紙が鳴る。


「先生来る前に決めたいんだけど」

「それはそう」

「今のうちに決めとけよ、ほんとに」


 岡田が言って、宮本がすぐ返す。


「お前も口だけじゃなくて一回名前出せよ」

「出してるって」

「『自分以外』をな」

「そこは大事だろ」


 その言い方に、近くでまた笑いが起きる。


 右隣で、木下さんが小さく息をついた気がした。呆れたというほどじゃなくて、少しだけおかしいものを見ているときみたいな、短い吐き方だった。


 そのとき、教室の前の引き戸が開く音がした。


 何人かの声が半分だけ止まる。


 でも、完全には止まらなかった。まだ紙を持ったままの手があって、岡田が「まだ一個だけだから」と言いかけて、宮本が「知らないからな」と低く返す。先生は黒板の前まで来て、教室を見渡した。


「なんだなんだ、朝から元気だな」


 その一言で、教室の空気が少しだけ縮む。


 誰かが椅子を引いて座る。紙の音がして、机の上のものが慌ただしく動く。さっきまで散っていた声が、それぞれ自分の席の方へ戻っていく。


 僕もノートを開いた。右隣では、木下さんがさっきまで出していた教科書を少しだけ引き寄せる。紙の端が机に擦れて、かすかな音がした。


 まだ完全には終わっていない顔がいくつか残っていた。紙は半分に折られて、岡田の方へ一度だけ向けられる。宮本はもう椅子に座っていて、井上は頬杖をやめて前を向いていた。


 先生の声が教室の前から落ちてくる。


 それでようやく、朝のざわめきが授業の形に押し戻されていった。


 押し戻されながらも、少しだけ残っていた。

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