第16話「同じはやさ」
窓の外はもう白くなかった。西の端に残っている明るさが、教室の後ろの壁に薄く伸びて、蛍光灯の白さと混ざっている。黒板の上の時計はそこまで遅くないのに、机の影だけ先に長くなっていた。
前の方で鞄のファスナーが閉まる。後ろでは岡田が椅子を半分引いたまま座っていて、膝を細かく揺らしていた。宮本はその横の机に手をついて立っている。部活帰りのはずなのに、息が上がっている感じはなかった。井上は斜め後ろでノートを開いたまま、もう読んでいるのか止まっているのかわからない顔をしていた。
「今日、まだ人いるな」
岡田がそう言って、教室を見回す。
「お前もな」
宮本がすぐに返した。
「それはそう」
岡田はあっさり言って、机の端を指で叩いた。佐藤さんが少し離れた席で笑う。
「岡田、さっきから帰る帰る言ってるのに全然じゃん」
「いや、今から。今から帰るって」
「五分前も聞いた」
「五分前は五分前だろ」
どうでもいいやり取りのまま笑い声が少し広がって、また小さくほどけた。誰かが引き戸を開けて、廊下の空気が一度だけ入る。すぐ閉まって、カーテンの端だけが遅れて揺れた。
僕は机の上のプリントを見下ろした。端の方に小さく書いた式が、自分で見ても少し急いでいる。あと一問だけ残っていて、そこだけ妙に収まりが悪かった。
隣で、紙の擦れる音がする。
木下さんは帰る支度の途中みたいにノートを半分閉じたまま、まだシャーペンを持っていた。筆箱は開いていて、消しゴムが少しだけ外へ寄っている。
「木下さん」
呼ぶと、木下さんは手を止めてこっちを見た。
「どうしたの?」
「これ、最後のとこ、急に見づらくなっちゃって…」
プリントの端を指で押さえて見せると、木下さんはすぐには答えずに、僕の手元を少し見た。それから、自分のノートを机の端へずらして、こっちへ目を落とす。
「……先に代入してるからだと思う」
「代入?」
「そこ、まだ文字のまま見たほうが楽かも」
木下さんのシャーペンの先が、式の二行目のあたりを指した。
「先にこっち整理したら、そのまま消えるから」
僕はもう一度見直した。たしかにそうだった。わざわざ一回ややこしくしていた。
「ああ……ほんとだ」
「代入するの、早いかも」
言い方がきつくなくて、そのまま入ってきた。
「急いでた」
「見ればわかる」
小さく返ってきたその一言で、僕は少しだけ笑った。
「雑だった?」
「うん。ちょっと」
木下さんも口元だけで笑って、シャーペンを少し浮かせた。そこで岡田が立ち上がり、椅子の脚が床を擦った。
「じゃあ今度こそ帰るわ」
「今度こそって何」
佐藤さんが言う。
「信用なさすぎるだろ、俺」
「あると思ってたんだ」
宮本がニヤニヤしながら言って、岡田が「ひど」と笑った。二人の足音が先に廊下へ出て、少し遅れて引き戸が鳴る。佐藤さんも鞄を持って立ち上がり、木下さんの方を向いた。
「佳乃ちゃん、先帰るね」
「うん。また明日」
「井上もね」
「はいはい」
「葵も、おつかれ」
「おつかれ」
佐藤さんが出ていくと、教室の音がまた一段だけ低くなる。
僕はさっきの式を消して、短く書き直した。二行あったのが、一行で済んだ。やることはそれだけなのに、机の上が少し片づいたみたいに見えた。
井上が背伸びをして、ノートを閉じる。
「水野」
「ん?」
「古文のやつ、まだ出してないのあったっけ」
「何の?」
「助動詞の表」
「うわ……あったわ」
「終わり」
「お前もだろ」
「俺は今思い出したから」
それだけ言って井上は立ち上がった。鞄を肩に掛ける動きがゆっくりで、でも帰るときだけはちゃんと帰る。
「じゃ、おつかれ」
「おつかれ」
戸が閉まると、さっきまで後ろにあった気配がきれいに抜けた。残っている机の並びが、そのぶん少し広く見える。
木下さんがプリントを重ねながら、小さく言った。
「今日、まだ人いたね」
僕も鞄を開きかけたまま、教室を見回した。空いた席と、まだ残っている鞄の影がまばらにある。
「うん」
それから、何となく続けた。
「最近、少し長いかも」
「何が?」
返ってくるのが早かった。
「残るの」
木下さんは一拍だけ止まって、教室の前の方を見た。誰もいない黒板の前に、白いチョークの粉だけ残っている。
「……たしかに」
そう言って、プリントの端を揃えた。
「前は、もうちょっと早かった気がする」
「うん」
それ以上の言葉は出なかったけれど、別に足りない感じもしなかった。
木下さんが筆箱を閉じる。僕も少し遅れて鞄の口を上げた。ほとんど同じタイミングで椅子を引いたから、木下さんがこっちを見た。
「今の、ちょっと重なった」
「うん、ほんとだ」
「そういう日もあるね」
「あるかも」
また、軽く笑う気配だけがあって、先に木下さんが引き戸の方へ向かった。僕は机の上を一度だけ見て、何も残っていないのを確かめてから、そのあとを出る。
廊下は教室より少し暗かった。窓の外の色がもう青に近くて、廊下側の掲示物は白い紙だけ浮いて見える。階段の方から、別のクラスの笑い声が一度だけ響いて、それきり遠ざかった。
木下さんが手に持っていたプリントを見て、僕は言った。
「さっきのとこ、家で見たらまた見づらくしそう」
木下さんは前を向いたまま、小さく笑った。
「最初の一行だけ見たらいいと思う」
「それで済めばいいけど」
「済ませるやつ」
「……少し圧ない?」
「ないよ」
ない、と言ったわりに少しだけ早く返ってきて、その速さがおかしかった。
階段を下りる。上履きの底が段の角に当たる音が、二つ分、ほとんど同じ間隔で続いた。踊り場の窓は少しだけ開いていて、外の風が入るたび、手すりの冷たさまで近くなる。
一階に近づくと、前を歩いていた女子が二人、下で立ち止まった。木下さんの足が少しだけ緩んで、僕も同じくらいのところで止まる。誰かが先に笑って、また歩き出す。
昇降口の手前で、人の流れが少し詰まった。
木下さんは前の二人が靴を履き替えるのを待っていた。僕は少し離れた自分の下駄箱の前で立ち止まる。
さっきまで階段に揃っていた足音は、そこで別々になった。




