第15話「いつものあと」
チャイムが鳴ってから少し経つと、教室の音は同じ速さでは減らなかった。
前の方ではもう鞄を肩にかけて立っているやつがいて、後ろの方ではまだ椅子を斜めにしたままノートを見ている。窓際で笑い声がひとつ上がって、すぐに小さくほどける。誰かが机の中から教科書を引き抜く音がして、少し遅れてファスナーの硬い音が続いた。
僕はプリントを机の右端に寄せたまま、シャーペンを持ち替えた。
空気は軽かった。テスト前みたいに、ページをめくる音まで張って聞こえることはもうない。それでも、完全に帰る方へ流れているわけでもなくて、残るやつは自然に残っていた。
斜め前で、佐藤さんが英語のワークを閉じた。
「もう無理。今日はここまで」
机に突っ伏すみたいにして言うと、少し離れた席から井上が顔を上げた。
「早くない、佐藤さん?」
「井上はそうやってすぐ人にやらせようとするよね」
「してないって」
してるだろ、と思ったけれど、言う前に佐藤さんが笑ったから、そのままプリントの端を揃えた。紙の角がきれいに重なる。少しだけずれていたのを指で押し込むと、横から木下さんの声がした。
「水野くん、それ終わった?」
顔を上げると、木下さんは自分のノートを開いたまま、こっちを見ていた。前みたいに、何かを聞く前の遠慮が少し長く置かれる感じがなかった。
「うん。終わった、たぶん」
「たぶんなんだ」
「たぶん、って言っといた方が楽だから」
言うと、木下さんは少しだけ笑った。大きくじゃなくて、口元だけがほどけるくらいだった。
「ずるい」
「ずるくはないでしょ」
「でも、間違ってた時に逃げられる」
「…そこまで考えてないよ」
否定すると、佐藤さんがすぐに口を挟んだ。
「考えてる顔してる」
「佐藤さん、それだいたい何にでも言ってるよね」
「言ってるかも」
また笑い声が重なって、すぐに散った。
木下さんのノートがこっちへ少し寄る。ページの端に、細い字で何か書き足してあった。僕は目だけを落とした。
「これ?」
「うん。ここ、結局どっちで取ればいいのかなって」
指で示したのは、授業中に先生が黒板の端に付け足していたところだった。どう書くのが一番ずれないか、みたいな話だった。
僕はノートの上を少し見てから、自分のプリントを引き寄せた。
「どっちでも通ると思う」
「じゃあ、こっちでもいい?」
「いいと思う。たぶん」
「また、たぶん」
「…便利だから」
木下さんが小さく息だけで笑う。机に置いた手が、ノートの端を軽く押さえたまま止まった。
井上がこっちを見ていたのか、少ししてから言った。
「水野、その“たぶん”で今まで何回乗り切ってきたんだよ」
「別に乗り切ってない」
「乗り切ってる人の言い方なんだよな」
「でも、実際そういうのあるよね」と佐藤さんが言った。「断定されるよりちょっと安心するやつ」
「それは雑でしょ」
「井上は黙って」
井上は素直に黙った。
教室の前の方で、誰かが「じゃあまた明日」と言って出ていく。引き戸が半分だけ開いて、廊下の明るさが細く入った。すぐ閉まって、また蛍光灯の白さだけが残る。
僕は自分のプリントを二つ折りにして、ノートの間に挟んだ。木下さんもそれを見たみたいに、同じタイミングでページを閉じる。紙の重なる音がほとんど同時で、少しだけおかしかった。
「…何?」
木下さんが言う。
「いや、別に」
「今、絶対何か思った」
「思ってない」
「思ってる顔してた」
さっきの佐藤さんと同じ言い方だったから、今度は僕が笑った。
「それ、流行ってるの?」
「流行ってるかも」
木下さんはそう言って、閉じたノートの上に手を置いたまま、肩を揺らした。
窓の外はまだ明るかった。西日というほど強くはなくて、白い雲の裏からぼんやり返ってくるみたいな光が、教室の後ろの壁を薄く照らしていた。暑い、というほどでもないのに、窓が少しだけ開いていて、カーテンの端が動くたびに空気が入れ替わる。プリントの角がめくれそうになって、指で押さえる。
こういう時間が、前より少し増えた気がしていた。
教室に残ること自体は前から同じなのに、ノートを開くまでの速さとか、誰かに声をかけるまでの間とか、そういう細かいところが少しずつ違っていた。
佐藤さんがいて、井上がいて、木下さんがいて、今日もまた何人か残っている。
その光景の中にいると、自然と肩の力が抜けた。
井上が先に立って、鞄を肩にかけた。
「じゃあ、俺そろそろ帰るわ」
「おつかれ」と佐藤さんが言う。
「井上、明日英語の単語テストな」
僕が言うと、井上は引き戸の前で振り返った。
「それ言わなくてよくない?」
「一応」
「一応で嫌なこと言うなよ」
「大丈夫、大丈夫」と佐藤さんが笑う。「たぶん大丈夫だから」
「それ、いま一番信用できないやつ」
井上が出ていって、また戸が閉まる。教室の中が少しだけ広くなった気がした。
佐藤さんはまだ席に座ったままで、木下さんは閉じたノートをしまわなかった。
僕もまだ立たなかった。帰るには早いわけじゃない。でも、今すぐ帰るほどでもない、というだけの時間が、机の上に残っていた。
「水野くん」
「ん?」
「さっきのとこ、明日もう一回見るかも」
「いいよ」
短く返してから、少しだけ言い足した。
「たぶん、同じこと言うけど」
木下さんは笑った。
「それでいい」
その言い方が、軽かった。
僕はシャーペンを筆箱にしまって、蓋を閉じた。小さい音がして、まだ誰も立たなかった。窓から入った風が、机の上の紙を少しだけ揺らして、それを木下さんが指で押さえるのが見えた。




