第14話「狭くなる」
答案用紙の端が、机の上で少しだけ反っていた。
チャイムが鳴ってから、もうだいぶ経っている。帰るやつは帰って、残るやつはそのまま残って、教室の中の音も昼間より低くなっていた。あるのは紙をめくる音と、椅子の脚が床を軽く擦る音と、後ろの方で途切れながら続く話し声くらいだった。
窓の外は、昼より少し明るかった。雲はまだ残っていたけれど、白さの奥に薄い青が見えていて、その明るさが教室の中にもゆっくり入ってきていた。
返ってきた現代文の答案と、ノートを並べて置く。赤で引かれた丸や、短く書かれた講評を見ても、もうさっきみたいな落ち着かなさはなかった。点数を見たときの感じは、だいたいもう済んでいて、今はただ、どこで引っかかったのかを見直しているだけだった。
後ろでは、井上が何か言って、佐藤さんが小さく笑った。二人の声は近いのにうるさくなくて、教室の空気を少しだけ動かして、またすぐ元に戻る。
隣で、紙の擦れる音がした。
木下さんも、自分の答案を見ていた。右手でシャーペンを持ったまま、左手で用紙の端を押さえている。視線が止まる場所が、何となくわかった。僕もさっき見返したところだった。
記述の問題だった。傍線の引かれた一文の理由を答えるやつで、答えそのものより、どこを根拠に取るかで少しずれる。
木下さんはすぐに書き込まず、そのまま少しだけ止まっていた。
僕も自分の答案を見下ろす。赤ペンで丸がついている答えの横に、自分で書いた字があって、その下の段落にうすく線が引いてあった。そこを見てから、もう一度木下さんの手元の方を見る。
小さい声で言った。
「……そこ、たぶん前のとこと繋がってると思う」
木下さんはすぐには顔を上げなかった。
「……前のとこ?」
「うん」
自分の答案の、少し上の方を指で押さえる。
「この一文だけで取ると、たぶんちょっと足りなくて。その前で、もう理由ほとんど出てる感じ」
言いながら、うまく伝わっているか少しだけ気になった。途中で自分でも少し曖昧だった気がした。
でも、木下さんは何も言わずに、僕が指で押さえたあたりを見た。それから、自分の答案を少しだけ手前に寄せる。
「……ああ」
その一言が、思ったより早く返ってきた。
「ここだけじゃなくて、前から続いてるってこと?」
「たぶん。たしか、こっちで一回言い切ってて」
僕はノートの端をめくった。授業中に取ったメモが、欄外に細く残っていた。自分で書いた字なのに少し雑で、でも見れば思い出せるくらいには残っている。
「そのあとで、傍線のとこが来てるから。理由っていうより、確認に近いのかも」
木下さんは小さく頷いた。シャーペンの先で答案の上を二回ほどなぞって、それから自分のノートの方に目を移した。
「……そっか」
そのまま少しだけ沈黙が落ちた。気まずい感じではなかった。後ろで佐藤さんが何か言って、井上が短く返す。二人の声は低く重ならずに続いて、すぐまた紙の音にまぎれた。
木下さんが、答案から目を離さないまま言った。
「でも、これだと最後の言い方、ちょっと広くない?」
僕はそっちを見る。
「広い?」
「うん。理由全部を入れると、たぶん書ききれないから」
そう言って、木下さんは自分のノートの端を指で押さえた。そこに短くまとまった言葉が並んでいて、僕のよりずっと整って見えた。
「先に、どこまでを答えるか決めた方がいいかも」
たしかにそうだった。僕は自分の答案の、少し長く書きすぎている部分を見る。
「ああ……たしかに」
小さく言うと、木下さんがほんの少しだけ笑った気がした。顔は上げなかったから、たぶん気のせいかもしれないと思ったけれど、声は少しだけやわらかかった。
「水野くん、たまに広いよね」
その言い方が、変に刺さらなかった。
「……そうかも」
「たぶん、合ってるけど長い」
「最悪じゃん」
言ってから、自分で少しだけおかしくなった。木下さんも小さく笑って、でもすぐにまた答案へ目を戻した。
しばらく、そのままだった。
誰かが廊下を走っていって、窓の外で運動部の声が遠く重なった。教室の中はそれよりずっと静かで、紙の音の方が近かった。シャーペンを持つ指先に少しだけ力が入って、離れて、また紙の上に戻る。そういう小さい動きばかりが目に入る。
僕は答案の余白を見て、それからノートの欄外に書いた短い言葉を見た。さっき木下さんに言われた「広い」が、思ったよりそのまま残っていた。
横で、木下さんがノートを一枚めくる。
その音がしたあとで、僕は答案の端に小さく書き足した。理由を二つに分けていたのを、一つにまとめる。言い換えられそうなところを削る。やっていることは地味なのに、さっきより少しだけ手が動かしやすかった。
後ろで佐藤さんが椅子を引いた。
「井上、まだ残る?」
「んー、もうちょい」
「佐藤さんは?」
「うちは一回職員室。プリント出しに行くだけ」
「ああ」
それだけで会話は終わって、また紙の音に戻る。佐藤さんの足音が廊下へ抜けていって、引き戸が軽く鳴った。
僕はもう一度、現代文の答案に目を落とす。講評の横に書かれた赤い字は細くて、先生の癖がそのまま残っていた。
隣から、小さく声がした。
「水野くん」
呼ばれて顔を向けると、木下さんは答案を見たままだった。
「ん?」
「これ、こっちの方が先でもいいと思う?」
シャーペンの先が、ノートの上の短い一文を指していた。さっきの記述の書き直しだった。僕よりずっと整った字で、言葉も短い。そのぶん、どこを先に置くかで印象が少し変わりそうだった。
僕は少し身を寄せて、ノートを見る。木下さんの机に寄りかかるほどではなくて、でも、自分の席から目だけで見るよりは近いくらいの距離だった。
「どっちでも通ると思うけど」
小さく言ってから、もう一度見直す。
「……いや、先にこっちの方がいいかも」
「こっち?」
「最初に理由を置いた方が、あとが短くて済みそう」
木下さんは一拍だけ止まって、それから頷いた。
「たしかに」
それだけ言って、すぐに並びを入れ替える。迷いが少なかった。
シャーペンの先が、迷いなく紙の上を滑っていく。線は細いのに、途中でぶれない。書いているところを見ているのも変だと思って、僕は自分の机に視線を戻した。
でも、戻してからも、さっき見た字の整い方だけ少し残っていた。
「水野くんって」
今度は僕の方が先にそっちを見る。
「うん」
「説明するとき、一回ほどくよね」
木下さんは、ノートに目を落としたまま言った。
「そのまま言わないで、ちょっとずつ」
言われた意味がすぐにはうまく飲み込めなくて、僕は少しだけ黙った。
「……そう?」
「うん」
短く返ってくる。
「だから、わかる」
変に強くない言い方だった。
それなのに、その一言だけが、答案の上の赤い字よりはっきり残った。
僕は視線を落とす。
「まあ……」
それしか出てこなくて、自分でも少し困る。
「たぶん、そのままだと自分もよくわかんないから」
言ってから、別にうまく返せていない気がした。でも木下さんは笑わなかった。少しだけ口元をやわらげて、ノートの上に視線を戻す。
「そっか」
それで十分みたいに言うから、余計にそれ以上足せなかった。
井上が後ろで小さく欠伸をした。
「ねむ」
独り言みたいに言って、椅子の背にもたれる気配がする。
僕は少しだけ笑いそうになって、答案に目を戻した。シャーペンを持ち直して、さっき削った記述の下にもう一度短く書き足す。今度は前より迷わなかった。
窓の外の明るさがまた少し変わる。白かった雲の切れ目が広がって、机の上の紙の色までさっきより乾いて見えた。木下さんのノートの端にも光が乗って、青い罫線が薄く浮いた。
教室の前の方で、誰かが鞄を持ち上げる音がした。ファスナーが閉まる。机の横に掛けていた荷物が揺れて、金具が小さく鳴る。
それでも、僕も木下さんもすぐには立たなかった。
もう話すことがあるわけじゃないのに、かといって気まずくもなくて、それぞれ手元を見たまま、同じくらいの速さで紙をめくっていた。
たまに、どちらかのシャーペンの音が止まる。少ししてまた動く。そのたびに、隣に人がいることを思い出した。
ノートを閉じるタイミングを見ながら、僕はふと、自分の答案の端に指を置いた。紙はもうさっきほど反っていなくて、机の上におとなしく収まっていた。
木下さんがノートを閉じる。
その音は小さかったけれど、近くで聞くと意外とちゃんとした終わりの音だった。
僕も少し遅れて、答案とノートを重ねる。
「……ありがと」
木下さんが言った。
声は小さかったけれど、聞き返すほどではなかった。
「いや」
それだけ返して、僕はノートの角を揃える。
廊下の向こうで、また誰かの声がした。部活の終わる時間にはまだ少し早い。教室の中には、静かすぎないままの放課後が残っていた。
僕は鞄にノートを入れて、机の上に何も残っていないのを一度だけ確かめる。
隣でも、同じように木下さんが手元を片づけていた。
それを見たあとで、僕はまた前を向いた。
ただ同じ時間まで残っていただけなのに、その日の教室は、いつもより少しだけ狭くなった気がした。




