↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/59

第13話「晴れてきた」

 廊下から教室へ戻ると、光の色が少し違って見えた。


 朝から空は曇っていて、窓の外はずっと白いままだった。


 さっきまでは、視線が一か所に囚われたみたいになっていた。


 そのまま教室まで戻ってきたはずだったのに、引き戸の横を通って、自分の席の並ぶ列が見えたあたりで、少しだけ空気が変わった。


 誰かが椅子を引く音がする。机の上で答案の束がずれて、紙の端どうしが擦れる。前の方ではまだ何人かが立ったまま話していたけれど、もうさっきまでいた場所みたいな張りつめ方ではなかった。笑うほどでもない声と、筆箱を閉じる音と、紙を鞄へしまう音が、教室の中でばらばらに鳴っている。


 そういう音の方が、先に耳に入った。


 僕は席に座って、机の上に出したままだった紙を軽く揃えた。隣では木下さんが、自分の答案をきちんと重ねている。窓際の席にいる木下さんの肩のあたりだけ、白い明るさが少しだけ濃く見えた。外はまだ曇っているのに、その曇り方が、さっきよりやわらかかった。


「水野く~ん?」


 顔を上げると、岡田が自分の席の方からこっちへ来て、僕の机に片手をついていた。いつもの調子で、もう少し笑っている。


「なに」

「なんか今日、だいぶ静かだったな」

「そう?」

「そうだって。さっき、めっちゃ真顔だったし」


 岡田は面白がるみたいにそう言って、机に体重を預けた。


「まあ、見るでしょ。あれは」

「見るけどさあ。お前、すげえ悔しそうな顔してた」

「そこまで出てた?」

「出てた出てた」


 言われて、自分でも少し笑った。


「岡田、そういうのだけはよく見てるよね」

「そういうのだけって失礼だろ」


 げらげら笑う声が教室のざわつきの上に一瞬だけ乗る。でも変に浮かない。そのくらいの声が、今の教室にはちょうどよかった。


「でもまあ、英語は勝ってるしな、俺」

「そこだけ切り取るなよ」

「いや、十分だろ」


 いかにも満足そうな言い方で、僕は肩をすくめた。


「別に。岡田が英語できるのは前からわかってたし」

「え、何それ。ちゃんと認めてくれるじゃん」


 岡田が少しだけ目を丸くする。


「認めるも何も、事実じゃん?」

「なんかそうやって言われると、普通にうれしいんだけど」


 言ってまた笑う。


「岡田くん、それ今たぶん褒められてるよ」


 後ろから井上の声がした。


 振り向くと、井上が自分の席で紙を持ったまま、少しだけこっちを見ていた。椅子に浅く座って、背もたれに体を預けている。


「だよな?」

「たぶん」

「たぶんかよ」


 岡田が返すと、井上は小さく笑ってから手元に目を戻した。その適当な返し方までいつも通りで、教室の中に入ってきてから少しずつほどけていたものが、そこでまた一段軽くなった気がした。


「水野」


 今度は少し低い声がして、宮本が通路側からこっちへ歩いてきた。自分の席からそのまま寄ってきたらしく、片手に紙を持ったまま、僕と岡田の机の間に自然に立つ。


「お前ら、またそこ集まってんのか」

「宮本も来たじゃん」

「いや、何か騒がしいから」


 そう言いながら、宮本は僕の机の上をちらっと見る。


「まあでも、水野も十分すごいだろ」

「急にまとめないで」

「まとめてはない。事実」


 こういうことを淡々と言うから、逆に返しづらい。岡田が横で「ほらな」と勝手にうなずいている。


「お前らさ、教室入ってまでそんな話する?」

「してないだろ。俺は英語の話しかしてない」

「それ、ほぼしてるのと一緒だろ」


 宮本がさらっと言って、岡田が笑う。


 そのやり取りを聞いているうちに、さっきまで胸の内側に引っかかっていたものの角が、少しずつ丸くなっていった。何かを言われたからじゃなくて、ただ、いつもの声が近くで続いているだけでよかった。


 窓際では、佐藤さんが木下さんの机の横まで来ていた。


「佳乃ちゃん、どうだった?」


 呼ばれて、木下さんが手元の紙から顔を上げる。返事の前に、いったん視線だけが佐藤さんに向く。その小さな間が、いつも通りだった。


「……まあまあ」

「いや、その言い方で低いわけないでしょ」

「どうだろ」

「どうだろ、じゃないのよ」


 佐藤さんが笑って、近くにいた何人かもつられる。木下さんは紙を見せるでもなく、口元だけ少しやわらげた。


 その横顔に、窓の外の白い光が薄くのっている。曇り空の明るさなのに、さっきより少しだけはっきり見えた。


 僕も自分の紙をめくる。赤でつけられた丸と、細い字の講評。もう見直す必要はないはずなのに、手だけが何となく紙をめくっていた。


「水野くん」


 木下さんの声がして、顔を上げる。


「ん?」

「数学の最後、最初どう置いた?」


 木下さんは自分の紙を見たまま、少しだけこっちに顔を向けていた。窓側から入る明るさのせいで、机の上の白さが、さっきより少し強く見える。


「あー……そこ、最初は合ってたと思う。途中でたぶん変な方に行った」

「やっぱり」

「木下さんも?」

「うん。途中まで一緒だったから」


 それだけの会話だった。


 そのまま僕は紙を見て、木下さんは端を揃える。机の上で紙が重なる音が、短く鳴った。


「数学の最後、あれ普通に面倒だったよね」と佐藤さんが言う。


「それはある」と僕が返す。


「沙希ちゃん、そこ落としてそう」と木下さんが言って、佐藤さんが「何で知ってるの」と笑う。


 会話は小さく広がって、また別の話へずれていく。誰かが次の授業のことをだるがって、別の誰かが昼休みの話をし始める。さっきまでの熱はまだどこかに残っていたけれど、話の中心は、いつの間にか別の方へ移っていた。


 その感じが、教室らしかった。


 岡田はいつの間にか後ろの席のやつと別の話で笑っていて、宮本は「次移動だっけ」と前の方を見ている。井上は後ろから「たしかそう」と気のない声で返して、また紙の端を折っていた。


 僕は机に両手を置いた。天板は少しだけひんやりしていて、掌の熱がゆっくり移る。隣では木下さんが紙をしまっている。ファスナーの音が短く鳴って、窓の外から入る明るさが、その手元を少しだけ照らした。


 そのとき、教室の中の光が変わった。


 窓の外で、厚かった雲が少し切れたらしい。白く広がっていただけの空の奥から、日が差してくる。木下さんの机の端が先に明るくなって、それが僕の机の方まで滑るみたいに広がった。紙の白さがはっきりして、鞄の金具が短く光る。


「お、晴れてきた」


 誰かが言った。


 ほんの一言だったのに、それで十分だった。


 窓際の明るさが、教室の中へゆっくり広がっていく。カーテンの端がふくらんで、また戻る。さっきまで平たく見えていた机も椅子も、少しずつ影を持ちはじめる。岡田の笑い声も、井上の気のない返事も、佐藤さんの通る声も、宮本の低い声も、全部その明るさの中で同じ高さに置かれていた。


 いつの間にか、頭まで晴れていた。


 代わりに、机の上の細い傷とか、紙の角の折れ方とか、隣で揃える音とか、そういうものの方が先にわかった。教室の中にいる、という感覚だけが、ちゃんと残っていた。


 外は、もう曇っていなかった。


 窓の向こうの空に青さが少し見えて、その色がガラス越しに薄く差し込む。誰かが立ち上がって、椅子の脚が床を擦る。誰かが小さく笑う。次の授業まで、まだ少しある。


 僕はそのまま席に座っていた。


 窓から入る光が、机の上にも、隣の席にも、教室の奥の方にも、途切れずに届いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。