第13話「晴れてきた」
廊下から教室へ戻ると、光の色が少し違って見えた。
朝から空は曇っていて、窓の外はずっと白いままだった。
さっきまでは、視線が一か所に囚われたみたいになっていた。
そのまま教室まで戻ってきたはずだったのに、引き戸の横を通って、自分の席の並ぶ列が見えたあたりで、少しだけ空気が変わった。
誰かが椅子を引く音がする。机の上で答案の束がずれて、紙の端どうしが擦れる。前の方ではまだ何人かが立ったまま話していたけれど、もうさっきまでいた場所みたいな張りつめ方ではなかった。笑うほどでもない声と、筆箱を閉じる音と、紙を鞄へしまう音が、教室の中でばらばらに鳴っている。
そういう音の方が、先に耳に入った。
僕は席に座って、机の上に出したままだった紙を軽く揃えた。隣では木下さんが、自分の答案をきちんと重ねている。窓際の席にいる木下さんの肩のあたりだけ、白い明るさが少しだけ濃く見えた。外はまだ曇っているのに、その曇り方が、さっきよりやわらかかった。
「水野く~ん?」
顔を上げると、岡田が自分の席の方からこっちへ来て、僕の机に片手をついていた。いつもの調子で、もう少し笑っている。
「なに」
「なんか今日、だいぶ静かだったな」
「そう?」
「そうだって。さっき、めっちゃ真顔だったし」
岡田は面白がるみたいにそう言って、机に体重を預けた。
「まあ、見るでしょ。あれは」
「見るけどさあ。お前、すげえ悔しそうな顔してた」
「そこまで出てた?」
「出てた出てた」
言われて、自分でも少し笑った。
「岡田、そういうのだけはよく見てるよね」
「そういうのだけって失礼だろ」
げらげら笑う声が教室のざわつきの上に一瞬だけ乗る。でも変に浮かない。そのくらいの声が、今の教室にはちょうどよかった。
「でもまあ、英語は勝ってるしな、俺」
「そこだけ切り取るなよ」
「いや、十分だろ」
いかにも満足そうな言い方で、僕は肩をすくめた。
「別に。岡田が英語できるのは前からわかってたし」
「え、何それ。ちゃんと認めてくれるじゃん」
岡田が少しだけ目を丸くする。
「認めるも何も、事実じゃん?」
「なんかそうやって言われると、普通にうれしいんだけど」
言ってまた笑う。
「岡田くん、それ今たぶん褒められてるよ」
後ろから井上の声がした。
振り向くと、井上が自分の席で紙を持ったまま、少しだけこっちを見ていた。椅子に浅く座って、背もたれに体を預けている。
「だよな?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
岡田が返すと、井上は小さく笑ってから手元に目を戻した。その適当な返し方までいつも通りで、教室の中に入ってきてから少しずつほどけていたものが、そこでまた一段軽くなった気がした。
「水野」
今度は少し低い声がして、宮本が通路側からこっちへ歩いてきた。自分の席からそのまま寄ってきたらしく、片手に紙を持ったまま、僕と岡田の机の間に自然に立つ。
「お前ら、またそこ集まってんのか」
「宮本も来たじゃん」
「いや、何か騒がしいから」
そう言いながら、宮本は僕の机の上をちらっと見る。
「まあでも、水野も十分すごいだろ」
「急にまとめないで」
「まとめてはない。事実」
こういうことを淡々と言うから、逆に返しづらい。岡田が横で「ほらな」と勝手にうなずいている。
「お前らさ、教室入ってまでそんな話する?」
「してないだろ。俺は英語の話しかしてない」
「それ、ほぼしてるのと一緒だろ」
宮本がさらっと言って、岡田が笑う。
そのやり取りを聞いているうちに、さっきまで胸の内側に引っかかっていたものの角が、少しずつ丸くなっていった。何かを言われたからじゃなくて、ただ、いつもの声が近くで続いているだけでよかった。
窓際では、佐藤さんが木下さんの机の横まで来ていた。
「佳乃ちゃん、どうだった?」
呼ばれて、木下さんが手元の紙から顔を上げる。返事の前に、いったん視線だけが佐藤さんに向く。その小さな間が、いつも通りだった。
「……まあまあ」
「いや、その言い方で低いわけないでしょ」
「どうだろ」
「どうだろ、じゃないのよ」
佐藤さんが笑って、近くにいた何人かもつられる。木下さんは紙を見せるでもなく、口元だけ少しやわらげた。
その横顔に、窓の外の白い光が薄くのっている。曇り空の明るさなのに、さっきより少しだけはっきり見えた。
僕も自分の紙をめくる。赤でつけられた丸と、細い字の講評。もう見直す必要はないはずなのに、手だけが何となく紙をめくっていた。
「水野くん」
木下さんの声がして、顔を上げる。
「ん?」
「数学の最後、最初どう置いた?」
木下さんは自分の紙を見たまま、少しだけこっちに顔を向けていた。窓側から入る明るさのせいで、机の上の白さが、さっきより少し強く見える。
「あー……そこ、最初は合ってたと思う。途中でたぶん変な方に行った」
「やっぱり」
「木下さんも?」
「うん。途中まで一緒だったから」
それだけの会話だった。
そのまま僕は紙を見て、木下さんは端を揃える。机の上で紙が重なる音が、短く鳴った。
「数学の最後、あれ普通に面倒だったよね」と佐藤さんが言う。
「それはある」と僕が返す。
「沙希ちゃん、そこ落としてそう」と木下さんが言って、佐藤さんが「何で知ってるの」と笑う。
会話は小さく広がって、また別の話へずれていく。誰かが次の授業のことをだるがって、別の誰かが昼休みの話をし始める。さっきまでの熱はまだどこかに残っていたけれど、話の中心は、いつの間にか別の方へ移っていた。
その感じが、教室らしかった。
岡田はいつの間にか後ろの席のやつと別の話で笑っていて、宮本は「次移動だっけ」と前の方を見ている。井上は後ろから「たしかそう」と気のない声で返して、また紙の端を折っていた。
僕は机に両手を置いた。天板は少しだけひんやりしていて、掌の熱がゆっくり移る。隣では木下さんが紙をしまっている。ファスナーの音が短く鳴って、窓の外から入る明るさが、その手元を少しだけ照らした。
そのとき、教室の中の光が変わった。
窓の外で、厚かった雲が少し切れたらしい。白く広がっていただけの空の奥から、日が差してくる。木下さんの机の端が先に明るくなって、それが僕の机の方まで滑るみたいに広がった。紙の白さがはっきりして、鞄の金具が短く光る。
「お、晴れてきた」
誰かが言った。
ほんの一言だったのに、それで十分だった。
窓際の明るさが、教室の中へゆっくり広がっていく。カーテンの端がふくらんで、また戻る。さっきまで平たく見えていた机も椅子も、少しずつ影を持ちはじめる。岡田の笑い声も、井上の気のない返事も、佐藤さんの通る声も、宮本の低い声も、全部その明るさの中で同じ高さに置かれていた。
いつの間にか、頭まで晴れていた。
代わりに、机の上の細い傷とか、紙の角の折れ方とか、隣で揃える音とか、そういうものの方が先にわかった。教室の中にいる、という感覚だけが、ちゃんと残っていた。
外は、もう曇っていなかった。
窓の向こうの空に青さが少し見えて、その色がガラス越しに薄く差し込む。誰かが立ち上がって、椅子の脚が床を擦る。誰かが小さく笑う。次の授業まで、まだ少しある。
僕はそのまま席に座っていた。
窓から入る光が、机の上にも、隣の席にも、教室の奥の方にも、途切れずに届いていた。




