第12話「僅差の大差」
廊下の角を曲がる前から、人が少しだけ溜まっているのが見えた。
休み時間ほど騒がしくはないのに、足は止まっている。壁際に寄って、白い紙を見上げている背中がいくつかあって、その後ろを通る生徒は少しだけ歩幅を狭める。話し声もあるけれど、小さい。誰かが名前を見つけて笑ったり、横の友達に肘で合図したりして、そのたびに空気がほんの少し揺れる。
テストの順位が出る、と朝のうちに聞いていた。
聞いていた、というより、教室のどこかでそういう声がしていた。前の方の席からだったか、窓側だったか、そこまでは覚えていない。ただ、昼前になってから急に何人かが廊下へ出ていって、僕も気になって席を立った。
掲示板の前は、近づくと少しだけ紙の匂いがした。新しいプリントを配られたときみたいな、乾いた匂い。画鋲で留められた紙の端がわずかに浮いていて、人が前を通るたびに空気でほんの少し揺れる。
壁に貼られた紙は、科目ごとに分かれていた。
左から順に、現代文、古文・漢文、現代社会、数学、英語、物理基礎、生物基礎。端に総合。
前にいた男子が一歩ずれて、ちょうど現代文の紙が見えた。
上の方から名前を追う前に、喉が少しだけ乾いた。大したことじゃないのに、こういうとき、いつも息が一拍だけ浅くなる。
紙の上の文字を、上から順に見る。
1位 水野葵 96点
「……ふぅ」
息に混ざって声が出た。声にしたつもりはなかったけれど、出た。点数をもう一度見る。名前も見る。間違いじゃない。よかった、と思うより先に、身体の方が先に軽くなっていた。
紙に近づきすぎたのが少し恥ずかしくて、僕は半歩だけ後ろに下がった。半歩下がったとき、上の方に並ぶ名字が一瞬だけ視界に入った。でも、もう一度確かめる気にはならなかった。
隣の古文・漢文に目を移す。
1位 水野葵 97点
現代文より点が高い。数字がひとつ増えただけなのに、胸の奥がさらに少しだけ緩む。僕はその行を見たまま、しばらく瞬きを忘れていた。
次。現代社会。
3位 水野葵 94点
悪くない。むしろ十分だと思う。そう思う前に、三位の行を見つけたという事実だけで、肩が少し落ち着いた。上の二つの点数を一度見てから、もう一度自分の行へ戻る。94。変わらない。
そのまま下へ流していくと、少し離れたところで見覚えのある名字が引っかかった。
10位 宮本大地 88点
意外というほどじゃない。ただ、こうして数字と並んでいるのを見ると、不思議な感じだった。視線がそこで一度止まって、それからまた流れた。
数学。
ここで、目の動きが少しだけ変わった。
一番上に、木下佳乃がいた。
1位 木下佳乃 99点
視線を少し下へ落とす。間にいくつか名前が挟まる。
4位 岡田健太 94点
その行を見たところで、舌が上顎に一瞬くっついた。何か言いそうになって、何も出ないまま、口を閉じる。数字の並びはただの並びなのに、そこだけ少し硬い。
もっと下。
一番下に近いところで、ようやく自分の名前が見つかった。
10位 水野葵 86点
僕は一度、まばたきをしてから、もう一度その行を見た。86。点数は点数だ。載っている。そう言い聞かせるみたいに、順位の「10」をなぞって、それからまた上へ目を戻した。
4位。そこだけ、もう一度見た。
前にいた女子が友達と小さく笑って、横にずれた。空いた隙間に少しだけ踏み出して、僕は紙を近くで見た。近づいたところで順位が変わるわけじゃないのに、点数の並びを見ていると、なんとなくそうしたくなる。
英語を見る。
1位 木下佳乃 98点
その少し下に、
5位 岡田健太 91点
さらにそこから視線を落として、自分の名前を探した。
10位 水野葵 84点
数字を見たまま、息を吸うのが遅れた。胸のあたりが一度だけ詰まる。詰まったのは悔しさなのか、ただの焦りなのか、まだよくわからない。ただ、紙の白さが急にまぶしくなる。
廊下の窓から入ってくる光が、そのへんだけ少し強い。掲示の上に細長い反射が出ていて、順位の数字のところが角度によって見えにくくなる。僕は立つ位置を少しずらして、もう一度見た。
見直しても、同じだった。
当たり前だけど、同じだった。
そのまま右へ目を流す。物理基礎。
上の方に、岡田がいた。
3位 岡田健太 93点
目がそこで止まる。止まって、ほんの一瞬だけ遅れてから動く。僕は自分の名前を探す前に、もう一度だけその行を見た。
それから下へ視線を落としていって、自分の名前を探した。見つからない。上からもう一度なぞる。やっぱり、ない。
口の中が乾く。僕は唇を一度だけ舐めて、すぐにやめた。
生物基礎へ移る。
こっちは、少し時間がかかったあとで自分の名前が見つかった。
6位 水野葵 89点
数字を見て、順位を見て、名前を見る。そこまでやって、ようやく息が戻る。紙の前で肩が上がっていたのに気づいて、僕は少しだけ首を回した。
「……うん」
短く、喉の奥だけで出た。誰に聞かせるでもない声だった。
紙の端がまた少し揺れた。後ろを誰かが通ったのかもしれない。掲示板の前の人の流れは、ずっとゆっくり入れ替わっている。立ち止まる人と、もう見終わって離れる人。その間にできる小さな隙間に、次の誰かが入ってくる。
最後に、いちばん右の総合へ目を向けた。
合計点の表記になっているその紙だけ、ほかより少しだけ見え方が違った。点数の重さが急に増したみたいだった。
上から順に見る。
1位、2位、3位。
そこを過ぎて少し下。視線が落ち着くあたりで、目が止まる。
5位 木下佳乃 637点
名前の右にある合計点を見る。数字が、科目の紙よりもずっと動かしづらい。胸の奥が、少し沈む。
そこから視線を落としていく。
少し間が空いて、行が続く。
8位 水野葵 630点
載っていた。まずそれがある。胸の底で、小さく鳴る。鳴ったはずなのに、軽くならない。むしろ、合計点という数字だけが身体の内側に貼り付いて、重さを増していく。
もう一度だけ、五位の行を見る。次に、自分。視線が行ったり来たりする。
――たった数点なのに、数字以上に離れて感じる。
目を上げて戻すだけで、距離が伸びる。挟まっている行が、ただの行じゃなくて段差みたいに見える。
掲示板の前に長く立ちすぎるのも嫌だった。自分の名前を見ているところを誰かに見られるのが、なんとなく落ち着かない。後ろから人の気配が近づいてきて、僕は少しだけ横へずれた。
半歩下がると、紙全体が見やすくなった。
総合の表は、近くでひとつずつ追うより、少し離れた方が並び方がよくわかった。上から下まで、名前と点数が真っ直ぐ落ちている。その前に立っている人の頭と肩で、窓の光が細かく切られて、床に影が落ちている。影は揃わない。人が動くたびに形が変わって、濃くなったり薄くなったりする。
その影の中で、さっきから何度も見た名字が、やけに残る。
廊下の向こうで、誰かが笑った。教室の方から聞こえてきたのかもしれない。すぐ近くでは、掲示を見終わった男子が小さく「やば」と言って、友達と並んで歩いていった。
もう一度だけ総合を見て、それから視線を外した。
壁から離れると、さっきまで紙に向いていた首の角度が戻る。肩も自然に下がる。掲示板の前にはまだ何人か残っていて、僕が空けたところにすぐ別の誰かが入った。紙の端が揺れて、画鋲のあたりが小さく鳴った気がした。
廊下を歩き出しながら、僕は口の中で息を吐いた。
載っていて、よかった。そういう気持ちは確かにある。だけど、歩き出した足音が、さっきより少しだけ固い。上履きの底が床を擦る音が、妙に短く聞こえる。
窓際の光は明るいのに、胸の奥にはうまくほどけないものが残っている。
【おまけ:主要人物の点数メモ】
※数字が気になる方向けに、主要人物の各科目点と合計点を置いておきます(見なくてOK)。
※満点:各科目100点/総合=7科目合計(700点満点)
科目:現代文/古文・漢文/現代社会/数学/英語/物理基礎/生物基礎
◆水野 葵
現代文:96/古文・漢文:97/現代社会:94/数学:86/英語:84/物理基礎:84/生物基礎:89
総合:630(8位)
◆木下 佳乃
現代文:92/古文・漢文:90/現代社会:87/数学:99/英語:98/物理基礎:86/生物基礎:85
総合:637(5位)
◆岡田 健太
現代文:83/古文・漢文:80/現代社会:82/数学:94/英語:91/物理基礎:93/生物基礎:85
総合:608
◆宮本 大地
現代文:80/古文・漢文:78/現代社会:88/数学:76/英語:79/物理基礎:81/生物基礎:77
総合:559
◆井上 直哉
現代文:79/古文・漢文:78/現代社会:78/数学:76/英語:75/物理基礎:77/生物基礎:77
総合:540
◆佐藤 沙希
現代文:78/古文・漢文:77/現代社会:79/数学:74/英語:80/物理基礎:76/生物基礎:77
総合:541




