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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第11話「ほどける」

「終わり。筆記用具を置いて」


 午後の最後の言葉が落ちた瞬間、教室の音が一段落ちた。


 置く音が一斉に鳴る。シャーペンが机に触れる音。消しゴムが転がる音。紙を裏返す音。さっきまで同じ方向へ揃っていた音が、急にばらける。


 先生が教卓の前に立って言う。


「答案は回収します。後ろから前へ回してください」


 紙が動き始める。束が移動していくたびに紙が擦れる音がする。受け渡しの指の音。角が机に当たる乾いた音。教室は静かじゃないのに、まだ落ち着かない。笑いが漏れそうで、漏れきらない。


 教卓のほうへ紙が揃えられていくのを見ていると、今日の「やらなきゃいけない」が一枚ずつ減っていく感じがした。


 減っていくのに、頭の中はまだ静かにならない。


「なぁ……」


 どこかで声が上がる。答え合わせの入口みたいな声。


「やめとけ」


 すぐ別の声が被さる。


「でも、気になるだろ」

「気になるけど、いまはやめとこ」

「それもそうか」


 笑いが起きる。今度はちゃんと続いて、でもすぐ途切れる。笑った分だけ、疲れが戻ってくる。


 最後の束が教卓に乗る。先生が紙を揃える音がして、端がきれいに揃っていくのが見えた。


 先生が顔を上げた。


「では、解散です。気をつけて帰るように」


 その一言で、教室がほどける。


 椅子の脚が床を擦る音が増える。鞄のファスナーが鳴る。筆箱の蓋が閉まる。シャーペンがケースに収まる音。息が吐ける音が混ざって、短い笑いがあちこちで跳ねる。


「……終わったー!」


 岡田が言って、背中を椅子に預けた。声は大きくないのに、言葉だけが先に軽い。


「やっと言えたな」


 宮本が返す。


「言えた。午前から我慢してた」

「我慢するところそこじゃない」


 井上が笑いそうになって、飲み込む。口元だけが一瞬ほどけて、すぐ戻る。


 窓の外は、朝より色が落ちている。光が斜めで、机の角が少しだけ長く影になる。


 岡田が僕の机の横まで来て、肩を落としたまま言う。


「水野、今日どうすんの」

「……どうするって?」

「放課後。残る? 帰る?」


 聞かれた瞬間、いつもの放課後が頭に出た。教室の隅。机に向かう時間。人が減っていく音。あれが当たり前になっていて、帰るって言葉が少しだけ遠い。


「う~ん……」


 僕は椅子の背にもたれて、ほんの少しだけ天井を見た。意味はないのに、時間を稼ぐときの癖だ。


「……今日は、帰る」


 言った途端、言い切った感じがして、逆に変な笑いが出そうになる。


「お、珍しい」


 岡田が笑いかけて、笑いきらずに口を閉じる。


「いつも何してんの、あそこ残って」

「…課題とか?」

「ようやるね~」


 宮本が後ろから来て、岡田の頭を軽く叩いた。


「今日はもう、みんな帰ろうぜ」


 宮本が言った。


「……そうだな」


 岡田が言って、笑いながら鞄を持ち直す。


 井上も小さく頷いて、「帰ろ」と言った。


 僕は鞄を持ち上げた。思ったより重い。中身は変わってないのに、腕だけが疲れている。


 廊下に出ると、足音が散る。教室より広いはずなのに、同じ方向へ向かう背中が多いから、狭く見える。


 廊下の奥のほうが、いつもより静かだった。遠くで響く声が少なくて、代わりに階段を降りる靴音がよく聞こえる。


 階段の手すりが冷たくて、触ると現実に戻る。


 外に出ると、空気が朝よりやわらかい。だけど冷たい。今日一日分の匂いが制服に薄く残っている気がした。


 歩き出すと、足の裏が妙に軽い。


 軽いのに、頭の奥だけがまだ、紙の白さを持っている。

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