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紫苑のあとで  作者: 月影
第1章

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第10話「束の間」

「終わり。筆記用具を置いて」


 先生の声が落ちた瞬間、教室のどこかで息が抜けた音がした。


 置く音が一斉に鳴る。シャーペンが机に触れる音。消しゴムを転がす音。紙を裏返す音。さっきまで同じ方向へ揃っていた音が、急にばらける。


 誰かが椅子を引いて、背中を伸ばす。肩を回す気配が増えていく。前のほうから小さい笑いが漏れて、すぐ隣がそれに乗る。静かだった教室が、少しずつ元の呼吸を取り戻す。


「……やべ~」


 岡田が、机に突っ伏すみたいに言った。


「何が」


 宮本が返す。


「午前全部」

「便利な言葉だな」

「便利なんだよ。救いなんだよ」


 井上が笑いそうになって、飲み込む。口元だけが一瞬ほどけて戻る。


 僕は答案用紙の角を揃えようとして、途中でやめた。揃える必要がないと分かった途端、紙はただの紙になる。机の上の白さが急に軽い。


 でも軽いのは紙だけで、頭の中はまだ重いままだった。午前が終わっただけで、今日が終わったわけじゃない。


「ねえ、最後のやつさ」


 後ろのほうで誰かが言いかける。


「言うな」


 すぐ別の声が被さる。


「昼に答え合わせすると、午後に引きずるぞ」

「でも気になるじゃん」

「だからだよ」


 笑いが起きる。起きるのに、どこか引っかかる。完全に騒ぎきれない笑いだ。笑いながらも、誰かが時計を見てる。


 視線を上げると、黒板の端の文字が残っている。


「学食、行く?」


 岡田が言う。


「行く」


 宮本が即答する。


 僕も立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音。机の中にシャーペンを投げ入れそうになって、やめる。結局ちゃんと入れ直す。こういうところでだけ、変に丁寧になる。


 廊下に出ると、同じ学年の制服が一斉に流れていた。午前を終えた背中の集まり方をしている。歩く速度が少しだけ速い。速いのに、行き先が決まっている。


 食堂の前で、匂いがぶつかった。


 油と湯気と洗剤。扉が開くたびに熱い空気がこぼれて、金属が短く鳴る。午前の冷たさが、そこで少しほどける。


 券売機の列はできていたけど、思ったより早く進む。硬貨が落ちて拾う音、ボタンを押す乾いた音、電子音、食券の紙が擦れる音。流れは止まらない。


 岡田が前を見たまま言う。


「午後さ、まだあるのが信じらんね~」

「あるだろ」


 宮本が返す。


「午前で終わりって顔してたのに」

「顔だけな」

「顔だけで済めばいいんだよ」


 井上が小さく言う。


「まぁ、始まったら終わるよ」

「それ当たり前のこと言ってない?」

「それが一番怖い」


 岡田が笑って言って、前の誰かが振り向きそうになって、やめた。


 食券が手に温かい。受け取り口でトレーの金属が冷たい。皿が置かれる音。味噌汁の湯気。箸袋を破く音。返却口の乾いた音。


 席に座ると、ようやく肩が少し落ちた。


 落ちたのに、頭の中の黒板の文字だけが残っている。午後。消されないまま。


 岡田が味噌汁を一口飲んで、すぐ言う。


「午後、やりたくね~」

「何回言うんだよ」


 宮本が即座に返す。箸を動かしながら。


「でも、やりたくね~」

「言うなって」

「言ったら減ると思ったのに」

「減らない」


 岡田が箸を持ち上げたまま、少しだけ間を置く。


「午後ってさ、始まる前が一番嫌じゃね?」

「それは分かる」


 宮本が言って、珍しく素直に頷いた。


「始まったら、もうやるしかないもんね」


 井上が小さく言う。


「始まる前だけ、逃げ道がある気がする」

「んなもんない」


 岡田が言って笑う。笑うのに、ちゃんと箸は動く。


 僕も箸を動かす。午前が終わったぶんだけ、腹が減っている。減っているのに、食べながら、午後の教室の冷たさだけが頭の隅に残る。あの「始めてください」の声。紙を裏返す音。靴音。


 食べ終わって返却口へ向かう。皿が重なる音が近くなる。水が流れる音。トレーを置いて手を離すと、指先に少し温かさが残った。


「戻るか」


 宮本が言う。


「戻りたくね~」


 岡田が言う。


「はいはい」


 宮本が言って、井上が小さく笑った。


 廊下に出ると、食堂の匂いが制服に薄く残っている気がした。階段を上がる足音が続く。教室が近づくほど、声が少しずつ小さくなる。


 午後が始まる前の静けさが、もう向こうから来ていた。

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