【第一部 本編】 四 清洲
一五六二年正月 尾張・清洲
桶狭間の後、三河が空いた。
今川義元が死んで、跡を継いだ氏真が動かない。三河の松平が、今川から離れた。
松平元康。十九で人質から独立した男である。
信長は使いを出した。
同盟の話である。
*
家中は反対した。
評定の席で、林秀貞が先に言った。
「松平は、代々の敵にございます」
「知っている」
「元康の祖父も、父も、こちらに殺されたようなものにございます。そういう家と縁を結んで、続きますまい」
「続く」
「なぜ、そう言えまするか」
信長は答えなかった。
柴田が膝を進めた。
「殿。人質は、いくつ取りまする」
「取らぬ」
広間が静かになった。
「取らぬ、と仰せに」
「言った通りだ」
「なりませぬ」柴田が言った。「縁を結ぶなら、人質を出させるものにございます。出さぬ相手を、どうやって信じまするか」
「信じるとは言っておらん」
「では」
「疑わぬと言っている」
柴田は意味が分からない顔をした。
林も同じ顔をしていた。
信長はそれ以上、何も説明しなかった。
*
正月、元康が清洲へ来た。
供は三十人ほどだった。
尾張は、元康が二年、人質に置かれていた国である。父が殺され、祖父が殺された国でもある。そこへ、三十人で入ってきた。
城の広間で、二人は向き合った。
元康は緊張していた。
二十一である。人質に出されて十二年、駿府にいた。尾張にも二年いた。そのとき信長と会っているはずだが、覚えているかどうか。
信長は先に口を開いた。
「三河は、まとまっておらぬな」
元康の顔が動いた。
「・・・はっ」
「一向宗が言うことを聞かぬ。西の吉良が動かぬ。東は今川がまだおる」
「よくご存じで」
「調べた」
信長は身を乗り出した。
「三河をまとめるのに、何年要る」
元康は答えなかった。
「五年か。十年か」
「・・・五年では、済みますまい」
「その間、西から誰も来ぬとしたら」
元康は信長を見た。
「西とは」
「俺だ」
信長は言った。
「俺は西へ行く。美濃を取る。近江へ出る。京へ行く。三河には行かん」
「それだけにございますか」
「それだけだ」
元康は、意味を測りかねているようだった。
「上洛のさいの、人数は」
「要らぬ」
「兵糧は」
「要らぬ」
「人質は」
「要らぬ」
元康は黙った。
「・・・何もお取りにならぬのですか」
「取らぬ」
「では、織田様には何の得が」
「東を見んで済む」
信長は座り直した。
「俺が西へ行っている間、背中を突かれぬ。それだけあればよい。お前は三河をまとめろ。まとめている間、西からは来ん。それで足りるだろう」
元康はしばらく考えていた。
それから、手をついた。
「・・・承知いたしました」
「うむ」
「ただ、一つ伺いたく」
「言え」
「なぜ、人質をお取りになりませぬ」
信長は少し考えた。
「人質を取れば、お前は俺を疑う」
「・・・」
「疑う相手に、背中は預けられん」
元康は顔を上げた。
その顔を、信長は覚えていた。後で人に、あの男は目が良い、と言っている。
*
元康が帰った日、柴田が残った。
「殿」
「まだ言うか」
「一つだけ」
「言え」
「あれが破ったら、いかがなさいます」
「破らぬ」
「破ったら、と申しております。あれが三河をまとめ、力をつけて、それから背く。ないとは申せませぬ」
信長は柴田を見た。
「そのときは、俺の見損じだ」
柴田は何か言いかけて、やめた。
下がりながら、この人はまた説明せぬ、と思った。
説明せぬまま、いつも当たる。
当たるうちは、誰も聞かない。
*
この同盟は、破られなかった。
当時、同盟が破られぬというのは、ほとんど例がない。婚姻を結んでも、人質を出しても、三年か五年で破れるのが普通だった。
信長は一度も三河へ出さなかった。
元康は名を家康と改め、三河をまとめ、遠江を取り、駿河を取った。
そして最後まで、織田から離れなかった。




