【第一部 解説】 三 桶狭間
■ 集中と、現場の問い
桶狭間の前夜、信長が何十回も読んだのはこの一行です。
『力は分けるな。一点に集めよ。二つを追う者は、一つも得ぬ。』
資源の集中は、ドラッカーが繰り返し説いた原則です。手持ちの資源は常に足りません。足りないものを均等に配れば、どこにも届きません。だから一点に集める。他を捨てる。
この原則の難しさは、内容ではなく適用にあります。
集中せよ、とは言っている。どこに集中せよ、とは言っていません。
信長はそこで詰まりました。二万五千に対して二千です。どこに当てても二千は二千で、勝てる場所が見つからない。原則は正しく、正しいまま、役に立たない状態でした。
答えを持ってきたのは、縫い物をしていた妻でした。
「今川さまは、どちらでお休みになるのでしょうね」
宿の心配です。戦の話ではありません。二万五千の人間が動けば、それだけの寝床が要る。一つの村には入りきらない。それだけの意味で言っています。
信長はこれを聞いて、二万五千は二万五千で戦うわけではない、と気づきます。
街道を進めば先頭と末尾は数里離れる。丸根に取りついている者がいる。鷲津にいる者がいる。荷駄がいる。夜は分かれて泊まる。義元の周りにいるのは、多く見て五千。ことによると三千。
そこだけなら、当てられる。
ここで起きたことは、二つに分けて見る必要があります。
一つは、集中する先が見つかったことです。原則が具体に落ちました。
もう一つは、それを見つけたのが誰かということです。
帰蝶は戦を知りません。数の話も、街道の話もしていません。人が寝る場所の話をしただけです。専門家でない人間の、素朴で具体的な問いが、専門家の抽象を割りました。
ドラッカーは、アルフレッド・スローンの会議の運び方を書き残しています。全員の意見が一致した議題について、スローンは決定を延期しました。意見の一致は理解が深いしるしではなく、誰も真剣に考えていないしるしだ、というのが理由です。
知識のある者ほど、前提を共有しています。共有しているものは、疑えません。
信長はそれを制度にしたわけではありません。たまたま隣にいた妻が、たまたま口にしただけです。
もう一つ、この章には別の原則が入っています。
『時は取り戻せぬ。銭も人も後から集まるが、時だけは戻らぬ。』
明日、今川は丸根と鷲津を落とす。落とせば陣を整える。整えれば、こちらから見える場所に本隊を置かなくなる。
機会は、今夜か明日の昼までしかありません。
集中する先が分かっても、間に合わなければ意味がない。原則が二つ重なって、初めて出撃という判断になります。
そして、この章で最も重要なのは、末尾です。
尾張中が、今川義元は油断していたと言いました。雨のおかげだと言う者もいました。天佑だと言う者が一番多かった。
信長は何も言いませんでした。
正しい判断は、事後にはたいてい運に見えます。判断の過程は本人の頭の中にしかなく、外からは結果しか見えないからです。しかも信長は、その過程を説明しませんでした。
説明しなければ、組織は学習しません。次に同じ状況が来ても、誰も同じ判断ができない。
このとき信長は、自分だけが分かっていればよいと考えていました。そのほうが速いからです。実際、速かった。
■ 史実では
桶狭間の戦いは永禄三年五月十九日、西暦では一五六〇年六月十二日にあたります。信長が寡兵で今川義元を討ったこと、当日に激しい降雨があったこと、義元の首を毛利新介が取ったことは『信長公記』に記されています。
出撃前に敦盛を舞ったという話も『信長公記』にあります。ただし作者・太田牛一は当日その場にいた可能性が低く、後年の聞き書きです。
今川軍の兵数は諸説あり、二万五千は最大に近い数字です。実際は一万数千とする説もあります。織田方が二千程度だったことは、おおむね一致しています。
戦術については長く議論があります。かつては迂回奇襲説が主流でしたが、現在は正面攻撃説が有力です。本作は後者を取りました。
義元が桶狭間で休息していた理由も、確定していません。油断説、丸根・鷲津陥落の報を受けての小休止説、そもそも本陣の位置が違うとする説があります。
そして、帰蝶の一言は完全な創作です。
帰蝶(濃姫)については、生没年も、桶狭間の時点で清洲にいたかどうかも分かっていません。信長との関係を示す同時代史料はほとんど存在しません。この作品で帰蝶が果たす役割は、すべて物語の要請から作られたものです。
信長が勝因をどう理解していたかも、記録にありません。運だと思っていた可能性もあります。
ただ、力を一点に集め、その一点が最も薄くなる時期を読んだ。この二つが重なったから勝てたことは、経過から見て取れます。
集中と、時機。どちらか一方では足りません。




