【第一部 本編】 三 桶狭間
一五六〇年五月十九日 尾張・清洲
寅の刻に、信長は起きた。
庭に出て、舞った。敦盛だった。三度目まで舞って、途中でやめた。
「螺を吹け」
誰も動かなかった。まだ暗い。城には二百も兵がいない。今川は昨日、丸根と鷲津に取りついている。落ちるのは時間の問題だと、夜のうちに評定で決まっていた。
決まったのは、籠城だった。
「螺を吹けと言った」
小姓が走った。
信長は具足を着けた。着けながら、飯を食った。湯漬けを二杯、立ったまま。
馬に乗ったとき、供は五騎だった。
城門を出るとき、老臣の一人が追いすがった。
「殿、どちらへ」
信長は答えなかった。
熱田に着いたのは辰の刻だった。ここで三百ほどが追いついた。信長は社に寄り、少し祈って、また出た。
丹下砦に入る。二百が加わった。
善照寺砦に入る。またいくらか加わった。
この時点で、二千に届いていない。
砦の物見が、東を指した。
「今川本隊、山に上がりましてございます」
「動いておるか」
「止まっております。旗が横に伸びております」
信長はそれを聞いて、少し笑った。
佐々隼人正と千秋四郎が、三百ほどで先に飛び出していった。止める間もなかった。半刻もしないうちに、二人とも討たれたという報せが来た。五十騎ほどが死んだ。
砦の中が静かになった。
「殿」
信長は立ち上がった。
「中嶋へ行く」
家臣が両手を広げて道を塞いだ。中嶋砦は、今川の目の前にある。ここから出れば、こちらの数が丸見えになる。
「二千では、見えたら終わりでございます」
「どけ」
「なりませぬ」
信長はその者の手を掴んで、脇へ投げた。
中嶋砦に入った。
そこから先は、動かなかった。半刻ほど、何もしなかった。
空が変わった。
北西から黒いものが来た。来たと思ったら、もう降っていた。雹が混じっていた。前が見えない。馬が嫌がって首を振る。
信長は具足の紐を締め直した。
「かかれ」
雨は横から吹いていた。信長たちは風を背に受けた。今川は正面から浴びている。面を上げられない。
二千が坂を上がった。
誰がどこにいるのか、分からなかった。旗も見えない。水と泥と、人の背中しか見えなかった。
最初の陣を破ったとき、信長はまだ気づいていなかった。二つ目を破ったときも。
雨が止んだのは、始まって半刻ほど経ってからだった。
目の前に、輿があった。
塗りの立派な、大きな輿だった。担ぎ手はいない。倒れている。
信長は輿を見て、それから周囲を見た。
崩れていた。今川の全部が、坂を転がるように崩れていた。
「あれを追え」
毛利新介が走った。
義元の首が上がったのは、それからすぐだった。
*
清洲に戻ったのは、日が暮れてからだった。
城の前に人が集まっていた。城下の者まで出てきていた。誰かが泣いていた。
広間で首実検をした。三千を超える首があったので、途中でやめた。
林秀貞が手をついた。
「まことに、天佑にございました」
信長は答えなかった。
「殿のお心のうちは、我らには測りかねまするが、あの雨は・・・」
「下がれ」
「はっ」
「みな、下がれ」
家臣たちは下がった。誰も理由を聞かなかった。
*
奥へ行くと、帰蝶が起きていた。
灯りを一つだけつけて、座っていた。信長が入ってくると、立ち上がって、また座った。
「お帰りなさいませ」
「うむ」
「具足が」
「ああ」
「泥が、ひどうございます」
「雨が降った」
「存じております。こちらも降りました」
帰蝶は水を持ってきた。信長は具足を外し、顔と手を洗った。血がかなり付いていた。
洗い終わって、信長は座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「熱田で、皆が笑っておりましたそうで」帰蝶が言った。
「何をだ」
「殿が、湯漬けを二杯召し上がってから出られたと。よほど腹が減っておられたのだろうと」
「減っていた」
「そうでございますか」
「昨日から食っておらん」
「まあ」
帰蝶は少し笑った。
信長は膝の上に手を置いていた。指がまだ震えていた。それを隠すつもりもなかった。
「帰蝶」
「はい」
「昨夜のことを覚えているか」
「昨夜」
「お前が言ったことだ」
帰蝶は首を傾げた。
「何か、申しましたでしょうか」
信長は答えなかった。
昨夜、信長は書を開いていた。
三日前からずっとそうしていた。今川が二万五千で来る。こちらは全部集めても三千に届かない。籠城すれば、砦を一つずつ潰されて、最後に清洲を囲まれる。野で当たれば、数で押し潰される。
書には、こうあった。
『力は分けるな。一点に集めよ。二つを追う者は、一つも得ぬ。』
信長はその一行を、何十回も読んだ。
分かっている。分けてはいけない。だが、集める先が分からない。二万五千のどこに二千を当てても、二千は二千だ。
昨夜も、それを読んでいた。
帰蝶が横で縫い物をしていた。糸を通すのに手間取って、何度も灯りに近づけていた。
そして、こう言った。
「今川さまは、どちらでお休みになるのでしょうね」
信長は顔を上げた。
「何だと」
「いえ。あれだけの人数が動いておられるのですから、宿もひと苦労であろうと。二万五千では、一つの村には入りきりませぬでしょう」
信長は書を持ったまま、動かなかった。
二万五千は、二万五千で戦うわけではない。
あれだけの人数が街道を進めば、先頭と末尾は数里離れる。丸根に取りついている者がいる。鷲津にいる者がいる。荷駄がいる。夜は分かれて泊まる。
義元の周りにいるのは、そのうちのいくらだ。
多く見て五千。ことによると三千。
そこだけなら・・・。
信長は書を伏せた。伏せてから、もう一枚、別の場所を開いた。前に読んで、そのときは何とも思わなかった一行があった。
『時は取り戻せぬ。銭も人も後から集まるが、時だけは戻らぬ。』
明日、今川は丸根と鷲津を落とす。落とせば陣を整える。整えれば、こちらから見える場所には二度と本隊を置かない。
今夜か、明日の昼までだ。
それを過ぎれば、もう機会はない。
信長は立ち上がった。
立ち上がってから、止まった。
「・・・負ければ、尾張は無い」
帰蝶は縫い物から目を上げなかった。
「やる前から、そのようなことを」
信長はしばらくそこに立っていた。
それから、出ていった。
*
「宿の話だ」信長が言った。
「宿」
「二万五千は、二万五千で来ぬ。お前がそう言った」
帰蝶は考えている顔をした。それから、まだ分からないという顔をした。
「わたくし、そのようなことを申しましたか」
「言った」
「宿の話をした覚えはございますが」
「それだ」
「それが、何か」
信長は答えなかった。
答える代わりに、書を引き寄せて開いた。あの一行のところで止めて、しばらく見ていた。
『力は分けるな。一点に集めよ。』
書いてある通りだった。
自分が昨夜考えたことが、そのままここに書いてある。自分が考えたのか、これを読んだから考えたのか、もう分からなかった。
どちらでもよかった。
この書は、当たる。
信長は書を閉じて、油紙に包み直した。
「帰蝶」
「はい」
「これは、誰にも見せるな」
「見ておりませぬ」
「見るな、とは言っておらん。見せるな、と言っている」
帰蝶は少し黙った。
「はい」
信長はそのまま横になった。具足下のまま、床も敷かずに。
帰蝶が何か掛けようとしたときには、もう寝ていた。
外で、まだ人の声がしていた。城下の者が松明を持って歩いているらしかった。誰かが太鼓を叩いていた。
尾張中が、今川義元は油断していた、と言っていた。
雨のおかげだ、と言う者もいた。
天佑だ、と言う者が一番多かった。
信長は何も言わなかった。




