【第一部 解説】 二 尾張
■ 成果は外にある
岩倉が落ちた夜、信長が開いたのはこの箇所です。
『実りは、外にある。内にあるのは費えだけである。人が争い、席を取り合い、互いを疑う。それらはすべて内にあり、一文の実りも生まぬ。にもかかわらず、人はそこに最も多くの時を使う。』
ドラッカーの原則の中で、最も反論しにくく、最も守られていないものです。
組織の内部には、成果は存在しません。あるのはコストだけです。人事も、会議も、稟議も、部門間の調整も、それ自体は一円も生みません。成果が生まれるのは常に組織の外側、顧客のいる場所です。
当たり前のことを言っているように見えます。ですが、実際に時間の使い道を数えてみると、話が変わります。
信長は数えました。
九年で戦った相手は、弟、叔父、従兄、家老、同族。全部、身内です。今川と当たったことは一度もなく、三河へ出たこともありません。九年かけて手に入れたのは尾張一国で、それももともと織田の国でした。
その九年で、今川は三国になっています。
勝ち続けていました。稲生でも勝ち、浮野でも勝ち、岩倉も落としました。負けていれば早く気づいたはずです。勝っていたから気づかなかった。内部の争いは、勝っても何も増えないという一点を除けば、外部との戦いと区別がつきません。
同じ緊張があり、同じ疲労があり、同じ達成感があります。
だから、費えを実りと錯覚します。
現代の組織でも、最も優秀な人材が最も長く関わっているのは、たいてい内部の案件です。承認を取る、根回しをする、部門間の利害を調整する、前任者の決定を覆すために資料を作る。どれも高度な仕事で、できる人間にしかできません。そして一円も生みません。
信長がやったのは、時間の使い道を項目別に数えることだけでした。誰と何回戦ったか。それを並べたら、全部が内向きだったと分かった。
数えるまでは、分かりませんでした。
この章にはもう一つ、原則が重なっています。
『時は取り戻せぬ。銭も人も後から集まるが、時だけは戻らぬ。』
九年は返ってきません。その間に鳴海が離れ、大高が離れ、沓掛が離れました。三つとも戦って取られたのではなく、城主が向こうへ歩いていっただけです。報せは来ていました。信長はそのたびに後にすると言い、後にしているうちに九年が経ちました。
国境は、こちらが見ていない間に動きます。
見ていなければ、動いたことにも気づきません。
外の変化に気づけないのは、情報が来ないからではありません。来た情報を後回しにするからです。そして後回しにする理由は、いつも同じです。目の前に、より緊急に見える内部の案件があるからです。
緊急なものと重要なものは、たいてい別です。
信長は九年かけて、その一行を自分の帳簿で確かめました。
■ 史実では
岩倉織田の滅亡までに信長が家督相続から九年を要したこと、その間の戦いがほぼすべて一族・家臣との内紛だったことは事実です。一五五一年に父・信秀が死に、一五五九年に岩倉城が落ちるまで、信長は弟・信勝、叔父・信光の系統、守護代家、鳴海の山口氏などと断続的に争い続けました。
鳴海城の山口教継が今川方に転じたのは信秀の死の直後とされます。大高城、沓掛城も相前後して今川方になりました。いずれも大規模な攻城戦の記録がなく、城主の離反という形で失われています。
今川方が丸根砦・鷲津砦を築いたのは、桶狭間の前年から当年にかけてです。本作では岩倉攻めと同時期に置きましたが、実際の年次には一年程度のずれがあります。
一方、信長が九年を「無駄だった」と総括した記録はありません。当時の当主にとって、一族の統制は避けて通れない前提条件でした。内紛を費えと見るのは現代の視点です。
地図を広げて時間の使い道を数える場面も、創作です。信長が東へ方針を転換した時期は史料からおおよそ辿れますが、それが自覚的な転換だったのか、単に内紛が片づいたから外へ出ただけなのかは分かりません。
本作は前者を取りました。九年という数字を信長自身が数えた、という設定です。
実際には、数えなかったのかもしれません。
ただ、数えるという行為自体が、原則の一部です。ドラッカーは、時間の使い道は記録しなければ分からないと繰り返し書きました。人は自分が何に時間を使ったかを、正しく記憶できないからです。
成果は外にあり、内部にあるのはコストだけです。どちらにどれだけ使ったかは、数えなければ見えません。




