【エピローグ】
一五八二年 九月 肥前・平戸
船は、思っていたより小さかった。
三本の帆柱があり、船腹に大砲の口が並んでいる。南蛮の船である。マカオへ寄り、それから西へ行くのだという。
信長は甲板の後ろのほうに立っていた。
髪を落としている。墨染めの衣を着ている。誰も彼を見ない。乗っているのは南蛮人が三十人ばかりと、日本の商人が数人と、あとは荷ばかりだった。
平戸を出て、四日目である。
海が広い。陸が見えなくなってから、二日経っていた。
*
本能寺のことは、堺で聞いた。
地下の抜け穴を通ったのは六月二日の朝で、鴨川の川筋に出るまで半刻ほどかかった。案内をした男は、それきり戻っていった。名も聞かなかった。
寺は焼けた。
遺骸は出なかった。誰も中を検めなかったからだ。
六月十三日に、光秀が死んだ。
山崎で秀吉に敗れ、坂本へ引く途中、小栗栖の竹薮で百姓に討たれたという。落武者狩りである。首は本物か偽物か分からぬまま、京で晒された。
十一日だった。
挙兵から十一日で終わった。
誰も味方につかなかった。細川も筒井も動かなかった。光秀は主殺しの逆賊とされ、そのまま死んだ。
信長は堺の宿でその話を聞き、何も言わなかった。
言うべき相手がいなかった。
*
風が変わった。
帆が鳴って、船が少し傾いた。信長は舷に手を置いた。
後ろで足音がした。
振り返らなかった。船の者だろうと思った。
「殿」
信長は動かなかった。
しばらく、そのままだった。
それから、振り返った。
女が立っていた。
小袖の上に道行を羽織っている。髪を布で包んでいた。顔に日焼けがある。若くはない。
信長は口を開いた。
開いて、何も言えなかった。
「お久しゅうございます」
帰蝶が言った。
信長は舷から手を離した。離した手を、どうしていいか分からないようだった。
「・・・生きて」
「はい」
「どこに」
「近江に。それから、丹波に」
「十五年」
「もう、そんなになりますか」
信長は帰蝶を見ていた。
「探した」
「存じております」
「探したと言っている」
「はい」
帰蝶は目を伏せた。
「存じておりました」
信長はそれ以上、何も言わなかった。
海が鳴っていた。
しばらくして、信長は舷にもたれた。
「誰だ」
「は」
「誰が、お前をそこに置いた」
帰蝶は答えなかった。
「答えろ」
「・・・十兵衛にございます」
信長は動かなかった。
波が二つ、三つ、船腹に当たった。
「明智・・・か」
「はい」
「いつだ」
「稲葉山の、あの日にございます」
帰蝶は淡々と話した。
あの日、稲葉山の麓まで来たところで、道が塞がっていた。落ち武者が出て、供の者が散った。侍女の一人が斬られた。
そこへ、馬で来た者がいた。
その頃、光秀はまだ織田の家中ではない。越前から美濃へ、道三の旧臣を訪ねて来ていたのだという。
光秀は帰蝶を近江まで運んだ。坂本に近い在に、道三の代からの縁の者がいた。そこに預けた。
「なぜ、戻らなかった」
「戻れば、殿に累が及びまする」
「累」
「あの日、わたくしは龍興の側に落ちようとしていたと、そう見る者がおりましょう。父の国が焼けて、甥が逃げた日でございます。わたくしが生きて戻れば、必ずそう言う者が出まする」
「俺が押さえた」
「押さえられませぬ」帰蝶は言った。
「殿は、まだ美濃を取ったばかりでございました。美濃の者を使わねばならぬのに、その国の姫が生きて戻れば、家中が二つに割れます。十兵衛は、そう申しました」
「わたくしも、そう思いました」
「それで、か」
「はい」
「一度も、言わせなかったのか」
「言わぬようにと、わたくしが頼みました」
信長は帰蝶を見た。
「お前がか」
「はい」
帰蝶は顔を上げなかった。
「あの晩のことがございました」
信長は思い出すのに、少しかかった。
清洲を発つ前の晩だ。父の国を、と帰蝶が言った。紙の上のものを形にするのが俺の仕事だ、と自分が言った。それだけの話だった。
「あれか」
「はい」
「あれは」
「大した話ではございませぬ」
「そうだ」
「大した話ではございませぬ」
信長は何も言わなかった。
*
日が傾いてきた。
水平線が赤い。船の影が長くなって、甲板を斜めに切っている。
「殿」
「うむ」
「十兵衛は」
「死んだ」
「はい」
帰蝶はそれきり黙った。
信長は懐に手を入れた。
油紙の包みを出した。紐を解くと、二冊の綴じが出てきた。厚さが少し違う。表紙は両方とも擦り切れて、もとの色が分からない。
信長はそれを両手で持った。
「これを、お前の父が遺した」
「はい」
「一つは俺に。一つは、明智に」
帰蝶が顔を上げた。
「十兵衛にも」
「知らなかったのか」
「存じませんでした」
信長は少し笑った。
「あれは、ついに、言わなかった」
帰蝶は二冊を見ていた。
薄いほうに見覚えがあった。尾張へ来た年に、自分が渡したものである。父から預かった包みを、そのまま渡した。中は結局見ないままだった。
あの人は、毎晩それを読んでいた。清洲でも、岐阜でも。灯を寄せて、同じ本を開いていた。
何をお読みなのですかと、聞いた記憶もある。
その時は書物だ、とだけ答えられた。
それきり、聞いていない。
「殿。それは、何の書でございましたか」
信長はすぐには答えなかった。
薄いほうを開いた。義父の字だった。右に流れる、癖のある字。
次に、厚いほうを開いた。見慣れない字である。誰が書いたのかも分からない。
「人を使う法だ」信長は言った。
「それから、なぜ使うのか、という話だ」
「二つの書に、それぞれ」
「いや」
信長は二冊を閉じた。
「一つの書だ。義父が写すときに、要らぬところを飛ばした。それだけのことだ」
「では、殿がお持ちのほうは」
「使い方だけが書いてある」
帰蝶は少し考えるような顔をした。
「殿は、それで足りておられたのですか」
信長は答えなかった。
答えないまま、舷に近づいた。
二冊を、両手で持ち直した。
腕を、伸ばしかけた。
「・・・お捨てになりますか」
後ろから、声がした。
帰蝶の声ではなかった。
信長は振り返った。
僧が立っていた。
墨染めの衣を着ている。日焼けして、痩せている。歳の頃は、自分と変わらない。いつからそこにいたのか、分からなかった。
信長は、その顔を見た。
長いこと、見た。
「・・・十兵衛、か」
「その名の者は、京で死んだと聞いております」
信長はまだ見ていた。
僧は目を伏せなかった。
「そうか」
「はい」
それ以上、どちらも確かめなかった。
帰蝶は、少し離れたところに立っていた。何も言わなかった。驚いた様子も、なかった。
*
僧は舷に並んだ。
海を見て、それから、言った。
「日ノ本は、これからどうなりましょう」
信長はすぐには答えなかった。
顔が、いくつか浮かんでいた。
柴田。丹羽。滝川。猿。留守を任せてきた者たち、槍を持たせてきた者たち。三十年、戦をさせ続けた。あれらは戦しか知らぬと、自分はずっとそう言ってきた。
知らぬのではない。
知らぬようにさせたのは、自分である。
「・・・こりごりであろう」
「・・・」
「戦だ。あれらも、もう、こりごりであろう」
僧は黙っていた。
「誰かが気づく」信長は言った。
「お前の言うたことに、いずれ誰かが辿り着く。教わらずともだ。書いてあることは、そういうことだ。読まずとも、いずれ誰かが同じところへ辿り着く」
「そうならなんだら、いかがなさいます」
信長は少し笑った。
「その時は、戻るまでよ」
僧も笑った。
二人が笑うのを、帰蝶は初めて見た。
*
日が沈みかけていた。
信長は、まだ二冊を持っていた。
舷から、腕を伸ばしかけて、止めた手である。
僧がそれを見ていた。
「お捨てにならぬので」
「うむ」
信長は厚いほうを持ち上げた。
「まだ、読み終えておらん」
「・・・」
「これはもう飽きた」薄いほうを、軽く振った。
「だが、お前のは一度つまんだだけだ。あれで読んだことになるか」
僧は答えなかった。
「ならん」信長は自分で答えた。
「意味は取れた。だが、まだ使えん。使えるようになるまで読む。そうせずにはおれん。俺は、そういう読み方しかできん」
僧は海を見ていた。
見たまま、言った。
「わたくしは、まだ自信がありません」
「ほう」
「読むたびに。正しく読めているか未だに迷います」
「お前でもか」
「はい」
「であるか」
信長は二冊を油紙に包み直した。
包みながら、言った。
「おれが教えてやる」
僧に向き直り、包みを高く掲げた。
僧は、黙ってうなずいた。
*
日が落ちた。
海の色がなくなって、空との境が消えた。
帆が風を受けている。船は西へ向かっていた。
甲板に、灯りが一つ点いた。
信長が包みを解いて、厚いほうを開いた。
字が読める明るさではなかった。それでも開いていた。
帰蝶が横に座った。
僧は、少し離れて座った。
誰も何も言わなかった。
船は進み続けた。
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