【第四部 本編】 六 本能寺
一五八二年六月二日 京・本能寺
外が明るかった。
火はもう回っている。廊下の向こうで何かが崩れる音がした。近習の森乱丸が槍を持って立っていたが、信長が下がれと言うと、下がった。
部屋には二人だけになった。
光秀は入口の手前で片膝をついていた。具足を着けている。兜は脱いでいた。
「十兵衛」
「はい」
「兵はどこだ」
「外に」
「なぜ入れん」
光秀は答えなかった。
信長は座ったままだった。小袖の襟が乱れている。弓を引いたときに緩んだのを、直していない。
「四国か」信長が言った。
「いえ」
「では丹波か。取り上げたのが不服か」
「いえ」
「では何だ」
光秀は顔を上げた。
「この国をどうなさるおつもりですか」
信長は光秀を見た。
「何度も聞いた」
「はい」
「何度も答えた」
「はい」
「聞いていなかったのか」
「聞いておりました」
「では分かるはずだ」
光秀は首を振った。
「分かりませぬ」
信長の眉が動いた。怒ったのではなかった。困った顔だった。
「戦を絶やせば、この国は死ぬ」信長は言った。
「武士が数万おる。あれらは戦しか知らん。戦がなくなれば、あれらは食えん。食えぬ者は奪う。奪えば国が焼ける。だから戦は絶やさぬ。絶やさぬために、火を残す。四国も、毛利も、上杉も、滅ぼしきらぬ。分かるか」
「分かります」
「では何が分からん」
「その先です」
「先とは」
「いつまでそれをお続けになるのですか」
信長は口を開いて、閉じた。
「終わりを問うておるのか」
「はい」
「天下に終わりを問う者があるか」
光秀は答えなかった。
信長は舌を鳴らした。それから、立ち上がった。奥の間へ行き、何かを取って戻ってきた。
「お前は昔からそうだ」信長は言った。
「よく言う。だから側に置いた。だが、いつも同じところで止まる」
信長の手にあるのは、一冊の綴じだった。
「読め」
信長はそれを投げた。
畳の上を滑って、光秀の膝の前で止まった。
「そこに書いてある。俺が考えたのではない。すべてそこにある」
光秀は動かなかった。
「読めと言っている」
光秀は手を伸ばした。
表紙に触れたとき、指が止まった。厚みが、違った。
開いた。
最初の行に目を落として、光秀の呼吸が変わった。
道三の字だった。
間違えようのない癖のある道三の字だった。
光秀は頁を繰った。速かった。前へ、前へと繰り、また戻した。
無い。
自分が知っている、そこにあるはずのものが無かった。
人を用いる法から始まっている。時をどう使うか。力をどこに集めるか。事を決めるとき、何から始めるか。全部ある。全部、正しく写してある。
だが、その前が無い。
なぜそれを行うのか、を書いた部分が、丸ごと無い。
途中にも、いくつか抜けがある。前後が繋がらない箇所が、いくつもあった。写した者が、要らぬと思って飛ばしたのだ。
光秀は顔を上げなかった。
ようやく、腑に落ちた。
通じなかったのではない。届いていなかったのだ。
いや、届くまえに、そもそもすれ違っていたのだ。
この人は、なぜやるのかを知らないまま、どうやるかだけで、ここまで来た。
そして声が聞こえた。
――信長がお前に書を見せたときは、お前の書を見せよ。
長良川の川原だった。雨上がりで、石が濡れていた。老人が耳元で言った、三十字に満たない言葉。二十六年、一度も口にしなかった言葉。
その時が、いま来た。
「殿」
光秀は立ち上がって、懐に手を入れた。
油紙に包んだものを取り出し、紐を解いた。
同じ形の綴じが出てきた。表紙は擦り切れて、もとの色が分からない。角が丸くなっている。
信長が、それを見た。
二人とも、しばらく黙っていた。
信長が近づいた。手を伸ばして、それを取った。
開いた。
字が違う。
信長は自分が投げたほうを拾い上げ、並べた。同じ書だった。同じ順で、同じことが書いてある。だが、こちらの方が厚い。
しかし、こちらには信長の書にないものがある。
信長は書を見たまま、光秀を見なかった。
「・・・道三か」
光秀は何も言わなかった。
信長は座り込んだ。畳の上に、そのまま。
そして読み始めた。
外で梁が落ちた。信長は顔を上げなかった。
分厚いほうを最初から、それぞれの文を貪るように読んだ。頁を繰る指が速く、時々止まり、また戻して読み直した。
目が一行を追った。
『人は、糧のみにては生きられぬ。人はおのれの居場所を欲する。この世に自分の座があり、なすべきことがあると知ったとき、はじめて人は人として立つ。組織とは、それを与えるための器である。』
信長の指が止まった。
その一行は、知っていた。
どこかで見た。何年も前だ。読んで、意味が取れず、義父の癖だと思って飛ばした。あの箇所だ。あれは、ここから来ていた。
次の頁を繰った。
また知っている言葉があった。安土で、光秀に言ったことだ。あのとき光秀は妙な顔をして、見事にございます、と言った。あれはこういう意味だったのか。
その次も。
喉のつかえが、一度に通った。
自分は正しくやってきた。一つも間違えていない。人を使い、時を使い、力を集め、事を決めた。書いてある通りにやり、書いてある通りに成った。
だが、何のためにやるのかを、自分は一度も読んでいなかった。
武士が数万おる。あれらに食い扶持は与えた。田も、扶持米も、戦場での手柄も。
役目は、一つしか与えなかった。
戦う者。
それしか与えず、それを永久に続けさせようとした。あれらは死ぬまで、殺す以外の座を持たぬことになる。
誰も理由を聞かなかった。聞いても答えぬと知っていたからだ。答える必要のない仕組みを、自分で作った。だから誰も、自分と同じものを見なかった。
見せなかったのだ。
信長は最後の一枚を読み終えた。
顔を上げた。
目の前に一人だけ、立っている。同じ書を持つ男が。
信長は書を閉じた。
乾いた音がした。
「・・・是非に及ばず」
光秀は畳に手をついた。額をつけた。何も言わなかった。
火が近い。廊下の板が鳴っている。
「十兵衛」
「はい」
「兵を、入れるな」
「はっ」
「寺は焼け。中は検めるな」
光秀は顔を上げた。
「殿」
「行け」
信長は立ち上がった。二冊を胸に抱えていた。
光秀は立ち上がり、外へ出た。
そして命じた。
「寺を焼け。中は検めるな。ひとりも入れるな」
誰も理由を聞かなかった。




