↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第四部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/45

【第四部 本編】 五 老ノ坂

一五八二年五月十五日 近江・安土



 家康が安土に着いたのは、五月十五日である。


 武田の始末が終わって、駿河を貰った礼に来た。供は三十人ほど。穴山梅雪が付いていた。


 饗応役は光秀である。


 三日の献立を組んだ。京から料理人を呼び、堺と若狭から魚を取り寄せた。鮒、鯉、鮑、海月。三日目には唐の菓子まで用意した。


 部屋の飾りも光秀が見た。掛物、花、香。家康は目の利く男である。安土の格を見せねばならない。


 十五日の夜、初日の膳が出た。


 家康は満足していた。信長も上機嫌だった。


 十六日も同じだった。


 十七日の昼過ぎ、光秀は呼ばれた。



              *



 信長は一人でいた。


「日向守」


「はっ」


「饗応は、堀久太郎に代われ」


 光秀は動かなかった。


「・・・」


「お前は、中国へ出よ」


「中国」


「猿が高松を囲んでおる。毛利の本隊が出てくる。加勢しろ」


 光秀は膝に手を置いた。


「いつでございますか」


「すぐだ」


「三日目の膳が、まだ」


「堀がやる」


 信長はそれだけ言った。


「坂本へ戻って支度をしろ。丹波の衆を集めて、備中へ出よ。俺も後から出る」


「殿も」


「うむ。西を片づける」


 光秀は頭を下げた。


「承知いたしました」


「行け」


 光秀は下がった。



              *



 廊下を歩きながら、光秀は考えていた。


 役を解かれたことは、どうでもよい。饗応など誰がやっても同じである。堀久太郎は気の利く男だ。三日目の膳は滞りなく出るだろう。


 考えていたのは、なぜ今か、ということだった。


 中国へ加勢を出すなら、丹波衆でなくてもよい。細川がいる。池田がいる。丹後も摂津も、備中に近い。


 なぜ、自分か。


 考えて、答えは出た。


 自分が畿内にいるからだ。


 畿内には、丹波、近江、丹後、大和がある。光秀はそのほとんどに手を持っている。取次も、朝廷との折衝も、寺社の始末も、この十年、全部やってきた。


 その男を、遠国へ出す。


 備中へ行けば、毛利と当たる。当たれば一年、二年。その間、畿内には自分がいない。


 畿内から自分が抜ければ、どうなる。


 光秀は足を止めた。


 抜けたところに、火が残る。


 四国が焼ける。長宗我部が兵を挙げる。誰かが抑えねばならないが、抑えきらない。上杉も同じだ。魚津は落ちるが、越後は残る。


 残った火が、燻る。


 燻り続ける。


 自分がいると、消してしまう。


 だから、遠くへ出すのだ。


 光秀は、その考えを打ち消そうとした。


 考えすぎだ。単に、備中に人数が要るだけかもしれない。あの人が自分を信じているから、一番大きな戦に出すのかもしれない。


 だが、打ち消しきれなかった。



              *



一五八二年五月 近江・坂本



 坂本に戻って、支度を始めた。


 兵を集める。兵糧を積む。丹波の亀山へ移し、そこから備中へ向かう。


 支度をしながら、光秀は方々に書状を出した。


 細川藤孝へ。筒井順慶へ。


 中国出陣のことを書き、備中の様子を尋ね、それから、近ごろの殿のご様子をどう見るか、と書いた。


 返事が来た。


 細川からは、殿はご壮健、四国のことは残念であった、備中でお会いしましょう、とあった。


 筒井からは、大和の普請のことが書いてあった。


 どちらも、光秀が何を聞いているか分かっていなかった。


 光秀は返事を火にくべた。


 誰にも言えない。


 言えば、まず信じない。殿が戦を残しておられる、と言ったところで、何を言っているのかと思われるだけだ。


 証を出せと言われる。


 証はある。四国がそうだ。上杉がそうだ。荒木も松永も林も佐久間もそうだ。並べれば見える。


 だが、並べて見せたところで、たまたまでございましょう、と言われて終わる。


 本当の証は、書だけである。


 あの書を出して、これに書いてあることと、殿のなさっていることが違う、と言えば分かる。分かる者もいるかもしれない。


 出せない。


 ――その書を持っていることを、誰にも言うな。誰にもだ。


 いつかの、長良川の川原である。


 あの人は、それだけを言った。理由は言わなかった。


 理由を言わなかったから、破りようがない。


 破ってよい理由がないからだ。



              *



 朝廷は、と光秀は考えた。


 勧修寺の家に伝手がある。近衛にも近い。上奏する道はある。


 だが、何を上奏する。


 殿が戦を残しておられます、と。


 朝廷は困る。困って、綸旨を出すかもしれない。出したところで、あの人は従わない。関のときも従わなかった。叡山のときも従わなかった。


 あの人は、朝廷の外にいる。


 将軍もいない。義昭は備後にいるが、あれはもう名だけである。


 止められる者が、いない。


 止められる場所も、ない。


 光秀は坂本の縁に出た。


 湖が黒い。夜だった。対岸に、安土の明かりが見える。夜通し消えぬ明かりである。


 あと三年か、四年か。


 甲斐で、あの人はそう言った。西が片づくまでの話である。


 片づいた後は、何も変わらない。片づけきらぬ、と言った。


 三年後、自分は備中にいる。


 五年後も、備中か、九州か、どこか遠くにいる。


 畿内には戻れない。


 戻ったころには、この国は、そういう国になっている。


 燻り続ける国に。


 光秀は、そこまで考えて、初めてその先を考えた。


 考えたくなかったことである。


 だが、他に道がない。


 説けない。訴えられない。待てない。


 残っているのは、一つだけである。



              *



一五八二年五月二十七日 丹波・愛宕山



 二十六日、光秀は亀山に入った。


 翌日、愛宕山へ登った。戦勝祈願である。珍しいことではない。西へ出るのだから、当たり前のことである。


 威徳院に泊まり、二度、三度と籤を引いた。


 二十八日、連歌の会を催した。


 里村紹巴が来た。ほかに、威徳院の行祐と、光秀の家臣が数人。


 百韻を巻いた。


 発句は光秀である。


  ときは今 あめが下しる 五月かな


 紹巴が受けた。


  水上まさる 庭の夏山


 それから順に付けていった。夜まで続いた。


 この発句は、後に問題にされる。


 時は土岐である。光秀の家は土岐の流れを引く。あめが下しるは、天が下知る。土岐が天下を治める、と読める。


 そう読んだ者がいた。秀吉である。


 だが、その場にいた者は、誰もそう読まなかった。


 五月である。梅雨だった。前の晩から雨が降っていて、山が濡れていた。庭の向こうに、水かさの増した流れが見えていた。


 光秀は、それを詠んだだけである。


 あるいは、それだけではなかったかもしれない。


 光秀は、その日、何も言わなかった。


 連歌が終わって、紹巴が帰った後、光秀は一人で外に出た。


 雨は上がっていた。


 山の上から、京が見える。


 あの日も、雨上がりだった。長良川の川原で、石が濡れていた。


 老人が耳元で、三つのことを言った。


 一つは、言うな。


 二つは、助けよ。


 三つ目は・・・。


 光秀は、その三つ目を思い出した。


 思い出して、首を振った。


 その時は、来ない。


 あの人が自分に書を見せることなど、ない。これまで一度もなかった。あの人は誰にも見せない。妻にも見せなかったと聞いている。


 ならば、三つ目は、意味のない言葉だった。


 道三は、来ぬ時のことを言い遺したのだ。


 光秀は山を下りた。



              *



一五八二年六月一日 丹波・亀山



 六月一日の夜、光秀は兵を出した。


 一万三千。備中へ向かうという触れである。


 夜の行軍は珍しくない。暑い季節は夜に動く。誰も怪しまなかった。


 亀山を出て、東へ向かう。


 備中へ行くなら、南へ下って摂津へ抜ける。東は、京である。


 老ノ坂に着いたのは、丑の刻を過ぎたころだった。


 ここで道が分かれる。南は摂津、東は京。


 光秀は馬を止めた。


 後ろで、一万三千が止まった。


 斎藤利三が寄ってきた。


「殿」


 光秀は答えなかった。


 空を見ていた。曇っている。月は出ていない。


 備中へ行けば、と光秀は思った。


 行けば、この一万三千は毛利と当たる。何千か死ぬ。勝つか負けるかは分からないが、いずれ片はつく。片がついても、また次がある。


 次があり、その次がある。


 この者たちの子も、孫も、同じことをする。


 そのように、この国は作られる。


 自分が今、南へ下れば、そうなる。


 光秀は手綱を握った。


 自分は正しいことをするのではない、と思った。


 主を討つ。理由は言えない。言えないから、誰にも分かってもらえない。細川も筒井も来ない。来ないことは、もう分かっている。


 自分は逆賊になる。


 なって、死ぬ。


 それでも、この国が燻り続けるよりは、まだましだ。


 まし、というだけである。


 それ以上のことは、何も言えない。


「利三」


「はい」


「敵は、本能寺にあり」


 斎藤利三は、しばらく光秀を見ていた。


 それから、馬を返した。


 列が動いた。


 東へ動いた。


 誰も理由を聞かなかった。

 この章に解説はありません。

 次回も本編が続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。