【第四部 本編】 四 四国
一五八二年四月 近江・安土
東が片づいて、残るのは西だけになった。
その数日後、四国の話が動いた。
長宗我部元親は、四年前から織田と結んでいる。土佐から阿波、讃岐へ広げてきた。取ったところは切り取り次第でよい、と信長が言ったからだ。
その取次を、光秀が務めてきた。
元親の正室は、光秀の重臣・斎藤利三の縁につながる。四年、書状のやりとりを全部見てきた。元親は約束を守る男だった。伊予に手をつけるなと言えばつけず、阿波の三好の残りには手加減した。
四月、信長は方針を変えた。
土佐と阿波南半のみ安堵する。他は返上せよ。従わねば、討つ。
光秀はその文言を、評定の場で聞いた。
*
広間は静かだった。
信長が言い、右筆が書き取り、それで終わりだった。
誰も何も言わなかった。
光秀は膝の上を見ていた。四年分の書状が頭の中を通っていった。元親が伊予から兵を引いたときのこと。三好の残党を許したときのこと。全部、こちらが言ったからやったことだ。
「殿」
光秀が言った。
諸将が、少し顔を上げた。
「何だ」
「四国の儀にございますが」
「うむ」
「土佐守は、これまで一度も約を違えておりませぬ」
「知っている」
「阿波を取れと申しましたのは、こちらにございます」
「そうだ」
「返上せよと申せば、あれは兵を挙げまする」
「そうだろうな」
光秀は顔を上げた。
信長は退屈そうな顔をしていなかった。むしろ、こちらを見ている。ちゃんと聞いている顔だった。
「殿は、それを承知で仰せになりますか」
「承知だ」
「なぜでございます」
「三好の縁を深くする」信長は言った。
「三男に阿波をやることにした」
説明になっていない。
光秀にはそう思えた。三好の縁が要るなら、四年前にそうしておけばよかった。四年かけて元親を育てて、育ったところで返上させる。理屈が合わない。
「日向守」
「はい」
「言いたいことがあるなら、言え」
光秀は少し迷った。
「では、申し上げます」
「言え」
「殿のなさりようは、近ごろ、あちこちで火を残しておられるように見えまする」
諸将が下を向いた。
信長は動かなかった。
「続けろ」
「上杉は、魚津まで押しておりながら、越後を突いておられませぬ。毛利も同じにございます。備中で止まっております。四国は、今のままで済むものを、わざわざ乱される」
「うむ」
「一つ一つには、それぞれ理由がおありでしょう。ですが、並べますと」
光秀はそこで言葉を切った。
言ってよいのか、迷った。
「並べますと、どう見える」
「・・・残しておられるように、見えまする」
信長は笑った。
「よく見ている」
光秀は顔を上げた。
「殿」
「お前はよく見ている。それでよい」
それだけだった。
信長は次の議題に移った。家康の饗応の話になった。
*
その夜、光秀は信長に呼ばれた。
二人だけだった。信長は縁に出て、湖を見ていた。灯りが下の町に散っている。
「昼のことだ」
「はい」
「並べるとどう見える、と言ったな」
「はい」
「言ってみろ。並べたら、何だ」
光秀は座り直した。
こういう機会は、めったにない。この人が自分から聞いてくることは、年に何度もない。
「殿は、戦を絶やさぬおつもりかと存じます」
信長は振り返らなかった。
「そう見えるか」
「はい」
「なぜだと思う」
「武士が食えなくなりまするゆえ」
信長が振り返った。
「分かっておるではないか」
光秀は頭を下げた。
通じた、と思った。
「殿。そこまでお考えでしたら、話が早うございます」
「言え」
「戦を絶やせば、たしかに武士は食えませぬ。ですが、戦でなくとも、武士に働き口はございます」
「どういうことだ」
「安土でございます」
信長が黙った。
「殿が安土でなさったことを、天下でおやりになればよろしいのです。川を直し、道を通し、湊を作る。人手が要ります。それも、束ねる者が要ります。武士は、人を束ねることだけは知っております。あれらを、そちらへ移せばよろしい」
光秀は続けた。
「戦を絶やすのではございませぬ。戦の代わりに、別の大普請をなさるのです。銭は同じように動きまする。武士は同じように食えまする。そして、国は焼けませぬ」
言い終えて、光秀は信長を見た。
信長は聞いていた。最後まで聞いた。
そして、こう言った。
「それは、武士の仕事ではない」
光秀は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「・・・」
「川を直すのは、百姓の仕事だ。道を通すのは、人足の仕事だ。束ねる者なら、代官でよい。侍は要らぬ」
「ですが」
「侍は、戦をする者だ」信長は言った。
「戦をせぬ侍を、何と呼ぶ」
光秀は答えられなかった。
「呼び名がないであろう」
「殿・・・」
「俺は、侍に飯を食わせると言っている。お前は、侍に鍬を持たせろと言っている。同じではない」
「同じにございます」
「違う」
信長は湖のほうへ向き直った。
「日向守。お前は優しい」
光秀は膝の上で手を握った。
「お前は、飢えさせぬために、侍を侍でなくそうとしている。俺は、侍のまま食わせようとしている。どちらが情けが深い」
「・・・」
「答えられまい」
光秀は答えられなかった。
言うべきことが喉まで来ていた。人は飯だけで生きるのではない。侍を侍のまま殺し合わせ続けるのと、鍬を持たせて生かすのと、どちらが人として立つか。
その先が、言えなかった。
言えば、なぜそう思うのかを言わねばならない。なぜそう思うのかを言えば、何を読んだかを言わねばならない。
ずっと、言わなかったことだった。
光秀は頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました」
「よい」
信長は振り返って、光秀を見た。
「日向守」
「はい」
「そういうことを言うのは、お前しかおらん」
信長の顔は、機嫌がよかった。
「他の者は、承知いたしましたとしか言わぬ。丹羽も、滝川も、猿もだ。お前だけが、違うと言う。それでよい。これからも言え。それがお前の役目だと心得よ」
「はっ」
「下がってよい」
光秀は下がった。
*
廊下を歩きながら、光秀は自分の手を見た。
震えてはいなかった。
叱られたのではない。褒められたのだ。あの人は最後まで聞き、こちらの言い分を認めた上で、違うと言った。そして、これからも言えと言った。
なのに、何も変わらない。
四国のことは、明日には触れが出る。上杉も毛利もそのままだ。
光秀は足を止めた。
三度目だった。
妙覚寺で一度、甲斐で一度、そして今日。三度とも、聞かれた。三度とも、答えた。三度とも、自分の言うた通りにはならなかった。
妙覚寺のときは、変わった。変わったが、自分が言ったのとは違う方へ変わった。
この人は、自分の言うことを聞いている。
聞いた上で、動かない。
ならば、なぜ聞くのだ。
光秀はそこで、ひとつのことに思い当たった。
言わせているのだ。
この人は、諫める者を一人置いておくと決めておられる。それが自分だ。自分が何を言うかは、どうでもよい。言う者がいる、という形が要るのだ。
――お前は、好きなようにこれからも申せ。ゆるす。
妙覚寺の縁で言われた言葉だった。
あのとき自分は、届いたと思った。
届いたのではない。役目を与えられたのだ。
光秀は歩き出した。
外に出ると、天主に灯が入っていた。夜通し消えぬ明かりである。油代がいくらかかるのか、以前この明かりを見て考えたことがあった。あのときは、笑った。
今夜は、笑えなかった。




