【第四部 本編】 三 甲斐
一五八二年三月 甲斐・天目山
武田が滅ぶのに、ひと月もかからなかった。
二月に木曾義昌が寝返った。信長はすぐに軍を出した。信忠を先手にして、伊那から入った。
城が次々に落ちた。落ちたというより、開いた。守る者がいない。城主が逃げる。兵が散る。高遠だけが戦い、それも一日で終わった。
三月三日、勝頼は新府城に火をかけて出た。
小山田を頼って岩殿へ向かったが、小山田も裏切った。行き場がなくなり、天目山の麓で追いつかれた。
勝頼と、正室と、嫡男の信勝が死んだ。
三月十一日である。
*
信長が甲斐に入ったのは、その後である。
諏訪に本陣を置き、そこで論功を行った。
徳川に駿河を与えた。滝川一益に上野と信濃の二郡を与えた。森長可に川中島。河尻秀隆に甲斐。
武田の旧臣は、探し出して斬った。信玄の代からの者は、ほとんど残らなかった。
諏訪の法華寺で、恵林寺の話が出た。
快川という僧が、逃げた者を匿っている。出せと言ったが、出さない。信長は山門ごと焼けと言った。
焼いた。百人余りが死んだ。
そのあたりのことを、光秀は後から聞いた。
光秀はこの遠征に加わっていない。畿内の留守を預かっていた。
*
一五八二年四月 近江・安土
信長が安土へ戻ったのは、四月の下旬である。
途中、富士を見て回った。徳川が道を整え、宿を建て、茶屋まで作って迎えた。信長は上機嫌で、家康を安土へ招くと言った。
安土に戻った日、諸将が挨拶に出た。
信長は日焼けしていた。四十九になる。若い頃より肉がついたが、動きは変わらない。
光秀も出た。
順に挨拶をして、下がろうとしたとき、信長が言った。
「日向守」
「はい」
「残れ」
諸将が下がって、二人になった。
*
信長は縁に出た。
庭に藤が咲いている。今年は早い。
「甲斐を見てきた」
「はい」
「よい国だ。田が広い。金も出る」
「はい」
「信玄が二十年、あれを持っていた。持っていて、上洛できなかった」
光秀は控えていた。
「なぜだと思う」
「・・・道にございましょうか」
「そうだ」
信長は縁に腰を下ろした。
「甲斐から京まで、荷が動かん。山ばかりだ。あれでは兵が出せても、続かん。信玄は強かったが、続かなかった」
「はい」
「河尻に、道を作らせる」
「甲斐に、でございますか」
「甲斐から駿河へ抜ける道だ。海に出せば、荷が動く」
光秀は少し驚いた。
滅ぼしたばかりの国に、道を作る。年貢を取るためではない。荷を動かすためである。
「殿」
「うむ」
「甲斐は、それで潤いましょう」
「潤う」
「潤えば、また兵が出せまする」
「出せる」
信長は何でもないように言った。
光秀は次の言葉を探した。
「それは・・・」
「日向守」
「はい」
「東が終わった」
信長は庭を見ていた。
「関東から東海まで、敵がおらん。北条は縁を結んだ。徳川は動かぬ。伊達も蘆名も、こちらへ使いを寄越してきた」
「はい」
「西だけだ。毛利と、上杉と、四国と、九州」
「はい」
「あと三年か、四年か」
光秀は膝の上で手を握った。
「殿」
「うむ」
「その後のことを、お伺いしてもよろしゅうございますか」
信長は振り返った。
「その後」
「西が片づいた、その後にございます」
信長はしばらく光秀を見ていた。
それから、言った。
「何も変わらん」
光秀は、聞き違えたかと思った。
「・・・」
「何が変わる」
「戦が、終わりまする」
「終わらん」
信長は庭に向き直った。
「日向守。お前は、戦が終わると思っているのか」
「毛利も上杉も片づけば」
「片づかん」
「殿」
「片づけぬ」
光秀は動かなかった。
信長は続けた。
「甲斐に道を作れば、甲斐が肥える。肥えれば兵が出せる。出せるなら、いずれ出す。それでよい」
「それでよい、とは」
「兵が出るということは、兵が食えるということだ」
光秀は言葉が出なかった。
信長はそれ以上、言わなかった。
「だから、戦は残す」信長は言った。
「終わらせぬ。終わらせぬために、片づけきらぬ」
庭で藤が揺れた。
風が出てきた。
「分かるか」
光秀は顔を上げた。
「・・・分かりませぬ」
「そうか」
信長はそれきり庭を見ていた。
光秀は、聞くことにした。
「殿。それは、いつまででございますか」
信長は少し首を傾げた。
「いつまで、とは」
「戦を残されるのは、いつまでにございますか。十年でございますか。三十年でございますか」
「そういうことを、なぜ聞く」
「・・・」
「終わりを決めてから始める者があるか」
光秀は答えられなかった。
信長は立ち上がった。
「饗応のことだ。家康が来る。お前がやれ」
「・・・はっ」
「五月の中頃だ。堺も見せる。段取りをしておけ」
「承知いたしました」
信長は奥へ入っていった。
*
光秀は坂本へ戻る舟の上で、ずっと同じことを考えていた。
あの人は、理由を言わなかった。
だが、見当はつく。
侍は田を耕さない。銭は主から出る。主の銭は戦から出る。戦をやめれば、食えぬ者が国じゅうに出る。おそらく、そこだ。
自分も同じことを考えたことがある。
だから自分は、その先を考えた。
戦の代わりに、別の大普請をやればいい。安土でやったことを、天下でやればいい。川を直し、道を通し、湊を作る。人手が要る。束ねる者が要る。侍にはそれができる。
自分はそう考えた。
あの人は、そう考えなかった。
なぜだ。
同じところまで来ていて、なぜその先が違う。
光秀は湖の水を見た。
いや、と思った。
自分の読み違いかもしれない。
あの人は、そこまで見た上で、それでも駄目だと判断したのかもしれない。自分が思いつく程度のことを、あの人が考えていないはずがない。考えた上で、できぬと分かっているのかもしれない。
それなら、理由を聞けばいい。
次に聞こう、と光秀は思った。
次に二人になったときに、ちゃんと聞こう。
舟が坂本に着いた。




