【第四部 解説】 二 馬揃え
■ 戻ってこない支出
正月の末に命が下りました。二月に京で馬揃えをする。奉行は明智日向守。
畿内、近江、若狭、丹波、大和、河内。ありったけを集めよ、という規模です。場所は内裏の東で、天皇が見る。公家が見る。京の者も見る。
光秀は馬場を作るところから始めました。南北八町の土地を平らにし、柵を巡らせ、桟敷を建て、天皇の御座所を作る。二十日足らずでした。人足を千人使い、木は近江から船で運びました。
当日は晴れました。金の唐錦、緋の羅紗、豹の皮。南蛮の帽子をかぶった者、馬に虎の皮をかけた者。誰も甲冑を着ていません。
最後に信長が出ました。黒い馬、赤い羅紗の陣羽織、唐冠。馬場を三周しました。
何も起きませんでした。戦ではないので、当たり前です。
この章の中心は、その後にあります。
全部終わってから、光秀が帳面をつけます。奉行の仕事です。何にいくらかかったかを、書き出さねばなりません。
馬場の普請。木材。人足の手当。桟敷。御座所。装束は諸将の自弁ですが、明智の分は自分で出しました。
書き出して、合計を見ます。
小さな城が一つ建つ額でした。
ここから光秀が考えるのが、支出の評価という問題です。
戦ではない。人は死んでいない。土地も取っていない。米も入らない。では、何のためにやったのか。
考えれば、分かります。
天皇が見た。公家が見た。京の者が見た。あれだけの軍勢が、一人の下に並ぶところを、みなが見た。
室町の将軍にはできなかったことです。将軍は大名の上に立ってはいましたが、大名を並べることはできませんでした。並べようとすれば、誰かが来ない。
信長は全部来させました。誰も欠けませんでした。それを見せた。
だから、意味はあります。
光秀は帳面を開き直して、もう一度合計を見ます。
意味はある。あるのだが、と思います。
これだけの銭を使って、見せただけだ。
安土は違いました。銭を使いましたが、その分だけ人が集まり、荷が動いた。使った銭が戻ってきます。道もそうです。松を植えるのに銭を使いましたが、道が通れば荷が動く。
馬揃えは、戻ってこない。見せて、終わりです。
ドラッカーは、支出を二種類に分けて考えました。
一つは、それによって将来の収入が生まれる支出です。設備、教育、研究開発。これらは費用として計上されますが、性質としては投資です。
もう一つは、その期に消えてしまう支出です。維持費、管理費、儀礼的な費用。必要ではありますが、それ自体からは何も生まれません。
問題は、会計上、両者が同じ「費用」として並ぶことです。
帳面を見ただけでは、どちらがどちらか分かりません。分けるには、その支出が何を生むはずだったかを、支出する側が言えなければなりません。
光秀は分けました。安土と道は戻ってくる。馬揃えは戻ってこない。
ここで、この章の難しさが出ます。
馬揃えは、本当に戻ってこない支出だったのか。
権威を可視化することには、効果があります。従わせるのに兵を出さずに済む。交渉が有利になる。反乱を思いとどまらせる。これらは金額に換算しにくいだけで、効果がないわけではありません。
現代の組織でも、同じ種類の支出があります。ブランド広告、社屋、式典、社内の表彰制度。どれも直接の売上には結びつきませんが、それをやめた組織で何が起きるかは、やめてみないと分かりません。
測れないものを、無駄と呼ぶかどうか。
光秀は無駄とは言っていません。意味はある、と認めています。ですが、意味があることと、収支が合うことは別だ、とも考えています。
そして、彼が気にしたのは金額ではなく、変化のほうでした。
この人が、戻ってこない銭の使い方をするのを、初めて見た。
この章の後半に、もう一つの例が置かれています。
その年の秋、伊賀を攻めました。五万で入り、半月で片づき、寺を焼き、村を焼き、逃げた者を山狩りしました。
伊賀は荷の通り道ではありません。市も立たない。銭も出ない。取っても、何も入らない土地です。
これも、戻ってこない支出でした。
光秀は、流れてきた者を坂本と亀山で受け、人足として使いました。城の普請がまだ残っていたからです。
その処置を、信長は何も言いませんでした。褒めもせず、咎めもしませんでした。
■ 史実では
京都馬揃えは一五八一年二月二十八日。内裏の東で行われ、正親町天皇が観覧しました。事実です。
明智光秀が奉行を務めたことも記録に残ります。準備期間が短かったこと、大規模な馬場を新造したことも伝わっています。
参加者の装束が華美だったこと、信長が唐冠をかぶって黒馬に乗ったことも『信長公記』に記されています。三月に再度実施されたことも事実です。
この催しの目的については、朝廷への示威、家臣団の統制の誇示、京の民衆への宣伝など、複数の説があります。決定的な説明はありません。
同じ年の秋、第二次天正伊賀の乱があり、信長が大軍で伊賀を制圧したことも事実です。徹底した掃討が行われ、多数の死者が出ました。
二年前に織田信雄が独断で攻めて敗れていたことも記録に残ります。
馬揃えの費用が「小さな城が一つ建つ額」だったという記述は、本作の設定です。実際の費用は分かっていません。当時、こうした催しの収支を記録する習慣自体がありませんでした。
光秀が帳面をつけて収支を考えた場面も、創作です。
伊賀からの流民を光秀が受け入れたという記録もありません。
支出が投資なのか消費なのかは、帳面の上では区別がつきません。区別するには、その支出が何を生むはずだったかを、支出する側が言える必要があります。言えなければ、後から見ても分かりません。




