【第四部 解説】 一 折檻状
■ 廃棄の原則
本願寺が開城し、十年の戦が終わりました。安土の広間に諸将が集まり、祝いの席になるはずでした。
宴が半ばを過ぎた頃、信長が立ち上がります。
「右衛門尉。高野へ行け」
佐久間信盛に渡されたのは、十九か条の書状でした。
石山を五年囲んで、一度も戦らしい戦をしなかったこと。城を落とさず、調略もせず、ただ座っていたこと。与えられた領地は織田家中で最も大きいのに、兵を増やさず、新しい者を召し抱えなかったこと。
三十年前、初めて仕えたときのことも書いてありました。他の者が皆去った中で残った。それは覚えている。だが、それだけだ。それ以来、何か功があったか。
最後の条は、こうです。居所がないというなら、もう一度戦場へ出て討死せよ。そうすれば名は残る。
この章が扱うのは、廃棄という作業です。
ドラッカーは、成果をあげるために最初にすべきことは、成果の出ていないものをやめることだ、と繰り返し書きました。
新しいことを始めるには資源が要ります。資源は有限です。だから、始める前に何かをやめなければなりません。ところが多くの組織は、始めることだけを議論し、やめることを議論しません。その結果、資源が薄く広く配られ、どれも中途半端になります。
やめる基準として、ドラッカーは一つの問いを示しました。
もしこれを今やっていなかったとして、今から始めるか。
答えが否なら、やめる対象です。
信長が佐久間に投げたのは、その問いでした。
「本願寺は降った。もう囲むものがない。お前は、明日から何をする」
佐久間は答えられませんでした。
この問いの厳しさは、過去の実績を一切考慮しない点にあります。三十年仕えたことも、十年抜かれなかったことも、答えになりません。問われているのは、明日からのことだけです。
実務としては、正しい問い方です。
過去の貢献を評価に入れると、廃棄は永久にできなくなります。どんな事業にも過去があり、関わった人がいて、それぞれに事情があるからです。そこを見始めれば、やめる理由は常に情に負けます。
だから、明日からの話だけをする。
ただし、この章にはもう一つの層があります。
光秀が坂本に戻って書を開き、廃棄について書いてある箇所を読み直します。何度も読んだ場所です。
実らぬ事業を捨てよ。実らぬ商いを捨てよ。実らぬ道具を捨てよ。
人を捨てよ、とは書いていない。
光秀は指を止めます。そして、自分で打ち消します。書いていないが、書いていないだけかもしれない。事業を捨てれば、その事業についていた者はどうなる。捨てるのと同じことだ。あの人は、そこを一足飛びになさっただけかもしれない。
この打ち消しが、正しいかどうか。
ドラッカーの廃棄は、事業についての原則です。製品、市場、活動、手続き。これらは目的のための手段なので、目的に合わなくなれば捨てられます。
人は、手段ではありません。
組織が人を雇うのは仕事のためですが、人が組織で働くのは仕事のためだけではありません。安土の章で見た通り、人は居場所を求めています。事業を捨てるとき、そこにいた人の居場所も一緒になくなります。
だから、事業の廃棄と人の廃棄は、同じ手続きでは扱えません。
事業を畳むとき、その事業にいた人をどこに移すか。それは別に考える必要があります。考えなければ、事業の廃棄がそのまま人の廃棄になります。
信長は、そこを一足飛びにしました。
佐久間には、明日から何をするか、という問いだけが投げられました。答えは用意されていません。
この章には、その帰結を示す場面が二つあります。
一つは、丹羽の言葉です。
「日向守殿。明日、わしが石山を囲んでおったら、わしも高野かの」
言って、手を振って行ってしまいます。
廃棄の基準が明確であることは、本来は良いことです。誰にでも同じ基準が適用されるなら、予測できるからです。
ですが、その基準が「明日から何ができるか」だけである場合、全員が同じ不安を持ちます。今の仕事が終わったとき、自分に次があるかどうか。それは、自分では決められません。
もう一つは、光秀自身の反応です。
喉に何かがある、と書かれています。飲み込めば消えるようなもので、実際そのうち消えました。
消えたが、その晩、佐久間の顔を思い出します。あの人が最後に何と言おうとして、言えなかったのか。
そして、こう考えます。
明日から何をする。あの人はそう聞いた。あれは、佐久間信盛への問いだったのだろうか。
光秀はそこで考えるのをやめます。本願寺は降った。武田はまだ残っている。毛利も上杉も残っている。当分、やることはいくらでもある。
やることがある限り、この問いは自分に向きません。
■ 史実では
佐久間信盛の追放は一五八〇年八月。十九か条の折檻状は現在も内容が伝わっており、『信長公記』に全文が収録されています。
石山本願寺との戦いが十年に及んだこと、その押さえを佐久間が担当していたこと、目立った戦果がなかったことも事実です。
折檻状の内容は本作で書かれた通りで、五年間戦らしい戦をしなかったこと、領地が家中最大なのに人を増やさなかったこと、三十年前の功に触れつつそれ以降の功を問うこと、最後に討死を勧めることが記されています。
同じ時期に林秀貞、安藤守就も追放されました。林の追放理由が二十四年前の稲生での謀反とされたことも事実です。
佐久間は高野山へ追われ、さらに熊野へ移り、一五八二年正月に十津川で死去しました。息子の信栄は後に許され、織田家に復帰しています。
この追放の意図については議論があります。世代交代を進めるためとする説、家臣への見せしめとする説、実際に佐久間の職務怠慢が深刻だったとする説があります。
当時の武家社会において、これほど明確に成果を基準とした人事は異例でした。通常は家格と忠誠が基準になります。
光秀が書を読み返す場面、丹羽との廊下でのやりとりは、創作です。
佐久間が何を思っていたかも、記録にありません。
やめる基準を持たない組織は、何も捨てられません。持てば、捨てられます。ただし、事業を捨てることと、人を捨てることは、同じ手続きでは扱えません。事業の廃棄には、そこにいた人をどこへ移すかという問いが、必ずついてきます。




