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本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第四部

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【第四部 本編】 一 折檻状

一五八〇年八月 近江・安土



 石山本願寺が開いたのは、その年の閏三月だった。


 顕如が紀伊へ退き、四月に教如が出た。八月には城に人がいなくなった。焼けたのは、その直後である。誰が火をつけたのか、はっきりしない。三日燃えて、跡だけが残った。


 十年の戦が終わった。


 安土の広間に、諸将が集まった。祝いの席になるはずだった。


 信長は上座にいた。機嫌は悪くなかった。丹羽に何か言って笑い、堀に酒を注がせている。


 佐久間右衛門尉信盛は、下座から数えて三番目にいた。息子の信栄が横にいる。


 この十年、石山の押さえは佐久間が務めていた。攻めきれなかったが、抜かれもしなかった。持ちこたえた。それで終わった。


 宴が半ばを過ぎた頃、信長が立ち上がった。


 諸将が下を向いた。


「右衛門尉」


 佐久間が顔を上げた。


「は」


「高野へ行け」


 誰も声を出さなかった。


 佐久間は、意味が分からない顔をしていた。


「殿。何と仰せに」


「高野へ行け、と言った」


 信長は懐から折り畳んだ紙を出した。


 小姓に渡す。小姓がそれを佐久間の前に置いた。


 佐久間は開いた。長かった。十九か条ある。


 読み進むにつれて、佐久間の手が震え始めた。


 石山を五年囲んで、一度も戦らしい戦をしなかったこと。城を落とさず、調略もせず、ただ座っていたこと。与えられた領地は織田家中で最も大きいのに、兵を増やさず、新しい者を召し抱えなかったこと。


 三十年前、初めて信長に仕えたときのことも書いてあった。あのとき、他の者が皆去った中で残った。それは覚えている。だが、それだけだ。それ以来、何か功があったか。


 最後の条に、こうあった。


 いずれの道にせよ、居所がないというのなら、もう一度戦場へ出て討死せよ。そうすれば、後の世に名は残る。


 佐久間は紙を持ったまま、動かなかった。


「・・・殿」


 声が出るまでに、しばらくかかった。


「それがしは、三十年」


「知っている」


「三十年、御奉公を」


「それも書いてある」


 信長は座り直した。


「右衛門尉。この十年、お前は何をした」


「石山を」


「囲んだ。それだけだ」


「抜かれておりませぬ」


「抜かれぬのは、当たり前だ」


 佐久間は言葉に詰まった。


「本願寺は降った」信長は言った。「もう囲むものがない。お前は、明日から何をする」


 佐久間は答えられなかった。


「答えられぬのだろう」


「・・・」


「俺も答えられん。だから、高野へ行け」


 信長は手を振った。


 それで終わりだった。


 佐久間は息子と二人で立ち上がり、広間を出ていった。誰も見送らなかった。誰も目を合わせなかった。


 同じ日、林佐渡守秀貞も追われた。


 理由は、二十四年前に信勝方についたこと、とされた。


 林は稲生の後に許され、以来ずっと使われてきた。勘定を回し、書状を書き、二十四年、一日も休まなかった。その二十四年について、何も書かれていなかった。


 安藤伊賀守守就も追われた。稲葉山を落としたときの三人のうちの一人である。


 三人とも、その日のうちに安土を出た。



              *



 光秀は末席にいた。


 宴が終わって、諸将が散った後も、しばらく広間に座っていた。


 理屈は分かる。


 書にこうある。もはや実らぬものは捨てよ。捨てなければ、新しいものに手をつける力が残らぬ。捨てるのは惜しい。惜しいから、みな捨てられぬ。だが捨てられぬ者は、いずれ全部を失う。


 佐久間は実らなかった。十年囲んで、落とせなかった。書の通りに読めば、捨てるべきものだ。


 林も同じだ。安藤も同じだ。


 書の通りである。


 光秀は立ち上がった。


 廊下に出ると、丹羽が待っていた。


「日向守殿」


「五郎左殿」


 丹羽は少し酔っていた。


「どう思われる」


「何をでございます」


「右衛門尉のことよ」


 光秀は答えなかった。


「わしは、あの人に槍を教わった」丹羽が言った。


「殿が末森と揉めておられた頃だ。あの頃、清洲に残ったのは十人おらなんだ。右衛門尉殿はその一人だ」


「存じております」


「それが、高野よ」


 丹羽は笑った。笑って、笑うのをやめた。


「日向守殿。明日、わしが石山を囲んでおったら、わしも高野かの」


「五郎左殿」


「いや、よい」


 丹羽は手を振って、行ってしまった。


 光秀はその背中を見ていた。



              *



 坂本に戻ってから、光秀は書を開いた。


 捨てよ、と書いてある箇所を読んだ。何度も読んだ場所だ。


 書には、こう書いてある。実らぬ事業を捨てよ。実らぬ商いを捨てよ。実らぬ道具を捨てよ。


 人を捨てよ、とは書いていない。


 光秀は指を止めた。


 書いていないが、書いていないだけかもしれない。事業を捨てれば、その事業についていた者はどうなる。捨てるのと同じことだ。


 あの人は、そこを一足飛びになさっただけかもしれない。


 光秀は書を閉じた。


 閉じてから、しばらくそのまま座っていた。


 喉に何かがある。


 飲み込めば消えるようなものだ。実際、そのうち消えた。


 消えたが、その晩、光秀は佐久間信盛の顔を思い出した。あの人が最後に何と言おうとして、言えなかったのか。それを考えていた。


 ・・・明日から何をする。


 あの人はそう聞いた。


 あれは、佐久間信盛への問いだったのだろうか。


 光秀はそこまで考えて、やめた。


 考えても仕方のないことだった。本願寺は降った。武田はまだ残っている。毛利も上杉も残っている。当分、やることはいくらでもある。


 その先のことは、そのうちあの人が話される。


 安土でそう言われた。



              *



 佐久間信盛は、高野からさらに追われ、熊野へ入った。


 二年後の正月、十津川の在で死んだ。供は一人だった。


 その報せが安土に届いたとき、信長は特に何も言わなかった。


 息子の信栄は、その後に許されて、家中に戻っている。

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