【第三部 本編】 四 安土
一五七九年五月 近江・安土
天主が完成したのは、有岡の始末がまだついていない頃だった。
信長は光秀を呼んだ。
光秀は坂本から船で渡った。琵琶湖の東岸に、山がある。その山の上に、見たことのない形のものが立っていた。
石垣が高い。城の石垣ではなかった。山そのものを削って、下から積み上げてある。その上に、五重の建物が乗っている。屋根の上にさらに屋根が重なり、最上層は八角だった。金が使われている。日を受けて、湖の上からでも光って見えた。
港に着くと、道が広かった。
馬が三頭並んで通れる。両側に家が建っている。まだ新しい。木の匂いがしている。
「これは」
案内の者が言った。
「安土の町にございます。殿のお指図で、割ってございます」
「割った」
「はい。ここが商人町、あちらが職人町。あちらは寺内。上から下まで、区切って割ってございます」
光秀は歩いた。
人が多い。夕刻に近いのに、まだ荷が動いている。近江の者ばかりではない。伊勢の言葉、京の言葉、堺の言葉が聞こえた。
「どこから集まったのだ」
「集められました」
「集められた」
「岐阜の商人衆に、こちらへ移れとのお達しがございました。移らぬ者は、商いを認めぬと」
「無理にか」
「はい。ですが」案内の者が声を落とした。「移った者は、みな喜んでおります。この町では、諸役が免ぜられております。座に入らずとも商いができます。徳政が出ても、この町の借りは消えませぬ」
「借りが消えぬのが、喜ばれるのか」
「貸す者が安心しますゆえ、銭が回りまする」
光秀は足を止めた。
街道の付け替えの話も聞いた。中山道から安土を通るように道を変えたという。ここを通らねば京へ行けない。人が来る。人が来れば銭が落ちる。
光秀は天主を見上げた。
城ではない、と思った。
これは、人と物を集めるための、仕掛けだ。
*
信長は天主の五重目にいた。
窓が開け放たれていた。湖が見える。北に伊吹、東に鈴鹿。西の空の下に京がある。
「見たか」
「拝見いたしました」
「どうだ」
光秀はすぐには答えなかった。
「殿」
「うむ」
「これは、いくらかかりましたか」
信長は笑った。
「そこを聞くのは、お前くらいのものだ」
「恐れ入ります」
「知らん。惟住(丹羽長秀)に聞け」
信長は窓辺に立って、下を見ていた。
町が見える。碁盤の目に割られた道と、その間を動く点のような人影が見えた。荷車が動いている。船が着いている。
「十兵衛」
「はい」
「あれを見ろ」
光秀は隣に立った。
「石を運んでいる者がおる」信長が言った。「あれは去年まで、伊勢で田を作っていた男だ。田が流れて、食えなくなった。今は石を運んで銭を得ている」
「はい」
「その銭で、あそこの店から物を買う。店の者は、その銭で近江の米を買う。米を売った者は、その銭で船賃を払う。船頭は、その銭で――」
信長は言葉を切った。
「際限がない」
「はい」
「戦をせずに、これだけ動く」
信長は窓枠に手を置いた。
そして、こう言った。
「城は、城のためにあるのではない」
光秀は、信長の横顔を見た。
信長は下を見たままだった。言った本人は、何ということもない顔をしていた。
石垣が高いのも、道が広いのも、天主が金なのも、それ自体のためではない。人が来るためのものだ。人が来なければ、ただの石と木だ。
信長はそのつもりで言った。
光秀は、違うふうに聞いた。
城は、城のためにあるのではない。
器は、器のためにあるのではない。
光秀の頭の中で、その言葉は別の一文と重なった。美濃を出る前の夜に読んだ、あの最初の数枚。
『人は、糧のみにては生きられぬ。人はおのれの居場所を欲する。』
この人は、それを知っておられる。
光秀は、そう思った。
そう思った瞬間、繋がった。
なぜこの人が関を潰したのか。なぜ銭の値を揃えたのか。なぜ座を壊し、道を広げ、この町を割ったのか。全部、そのためだったのだ。人が食えるだけでなく、人がおのれの座を持てる場所を作るために。
言わなくても、この人は読んでいる。
いや、読んでいなくとも、同じところに立っておられる。
光秀は膝をついた。
「殿」
「何だ」
「いえ」
「何だ」
光秀は頭を下げた。
「見事にございます」
信長は鼻から息を出した。
「それだけか」
「それだけにございます」
信長は窓から離れた。
「本願寺が、そろそろ折れる」
「はい」
「折れれば、十年の戦が終わる」
「はい」
「その後のことを、そのうち話す」
光秀は顔を上げた。
「はい」
その一言で、光秀は救われた気持ちになった。
有岡のことがあってから、半年ばかり、夜眠れなかった。自分は言わねばならぬことを言わなかった。その悔いが、ずっと胸にあった。
だが、この人には要らなかったのだ。
自分が言わずとも、この人はそこまで来ておられる。ならば、あの日自分が言えなかったことにも、意味はなかった。
そして、本願寺が折れれば、いよいよその先の話になる。
戦が終わった後、この国をどうするか。
自分だけが知っていたことを、ようやく話せる日が来る。
光秀は坂本へ戻る船の上で、久しぶりに旨いと思って酒を飲んだ。
湖の向こうで、天主に灯が入るのが見えた。
夜の間じゅう、あの明かりは消えないのだという。
油代がいくらかかるのか、光秀はまた考えて、少し笑った。




