【第三部 解説】 三 有岡
■ 正しくやって、離れられる
荒木村重の謀反は、信長にとって理解できないものでした。
二年前、摂津一国を任せています。茶の湯の会に呼び、名物を与え、九鬼の水軍を預けた。石山を囲む要の位置に置いたのは、それだけの信を置いたからです。
理由を聞け、と使者を三度出しました。三度とも、要領を得ない返事しか戻りません。
四度目に、光秀が行きました。
この章で確認しておきたいのは、信長の処遇に間違いがなかったことです。
ドラッカーは、人を活かす条件をいくつか挙げています。強みに合った仕事を与えること。責任の範囲を明確にすること。その範囲では権限を持たせること。成果を評価すること。
村重への処遇は、この全部を満たしています。
摂津は複雑な土地でした。三好の残党がいて、本願寺がいて、国衆が分立している。それをまとめられるのは、摂津の出身で、国衆と縁のある村重しかいません。強みに合っています。
一国を任せたのだから、責任の範囲も明確です。名物を与えたのは、当時の武将にとって最上級の評価でした。水軍を預けたのは、権限の委譲です。
書のどこにも、間違いはありません。
それでも、村重は離れました。
光秀が有岡で見たものが、この章の要点です。
城内は静かでした。人はいるのに、誰も声を出さない。籠城の前の城には独特の高ぶりがあるものですが、それがない。
村重は書院で茶碗を拭いていました。
「日向守殿が来られると聞いて、驚きました。殿は、まだ諦めておられぬのですな」
光秀は、順を追って話しました。摂津一国は殿が預けたもの。名物も、水軍も。それだけの信を置いた相手に、殿は理由を尋ねておられる。斬るとは言っていない。尋ねている。
村重の返事は、こうでした。
「それは、道理でございますな」
皮肉ではありません。本当に道理だと言っています。それだけに、何も届いていないことが分かりました。
道理では人は動きません。
これは実務の場で最もよく起きる失敗です。相手が納得しないとき、こちらは説明を足します。より詳しく、より論理的に、より丁寧に。ですが、相手が困っているのが論理ではない場合、説明を足しても届きません。
村重が何に困っていたのかは、最後まで分かりません。
「羨ましい」
村重はそう言いました。光秀が「なぜでございます」と聞いても、答えませんでした。庭を見て、それだけでした。
この空白が、この章の中心です。
ドラッカーは、コミュニケーションは受け手の言葉で行われなければならない、と書きました。発信側がどれほど正確に語っても、受け手の関心の枠に入らなければ、届きません。
ですが、その前段があります。受け手が何を求めているのかを、発信側は知らないことがあります。
村重は、摂津一国を欲しがっていたわけではないのかもしれません。名物も、水軍も、彼が求めていたものではなかったのかもしれません。
与えたものが正しくても、求めていたものと違えば、意味がありません。そして、求めていたものが何かは、聞かなければ分かりません。
信長は聞きました。三度、使者を出しています。
村重は答えませんでした。
叡山のときの信長の言葉が、ここでも当てはまります。言わぬ言い分は、無いのと同じだ。
ただ、この章にはもう一つの層があります。
光秀は、言えることを言いませんでした。
本当は、もっと先まで言えることがある。殿がなぜそれをなさるのか。なぜ人を組み込もうとし、なぜ組み込めなかった者を滅ぼすのか。あの方が読んでおられるものが何であるのか。
言えなかった。いや、言う必要もなかった。
処刑の報せを聞いた夜、光秀は書を開き、人を用いるくだりを読み直します。強みの上に築け。責任と権限を与えよ。殿はその通りにした。書のどこにも間違いはない。
それでも、あの男は離れた。
自分が足りなかったのだ、と光秀は考えます。もっと言いようがあったはずだ。道理では人は動かない。それを一番よく知っているはずの自分が、道理しか言えなかった。
言えなかったのではない。言わなかったのだ。
この区別が、光秀という人物の性質を示しています。
言えなかったのなら、能力の問題です。言わなかったのなら、選択です。彼は選択したことを認めています。
なぜ言わなかったのか。言えば、自分が何を読んでいるかを言うことになるからです。
道三との約束を、彼は守り続けていました。
■ 史実では
荒木村重の謀反は一五七八年十月。摂津有岡城で織田から離反しました。事実です。
村重が摂津一国を与えられていたこと、茶の湯を好み信長から名物を与えられていたことも記録に残ります。
謀反の理由は、当時から分かっていません。本願寺との内通、毛利との通謀、家臣の不正が発覚することを恐れた、など諸説あります。信長が使者を送って理由を問うたという話は『信長公記』にあります。
明智光秀が説得に赴いたという記録もあります。光秀の娘が村重の嫡男・村次に嫁いでいたことは事実で、離反後に離縁されて明智家に戻りました。この娘が後に細川忠興に嫁ぐ玉、後の細川ガラシャです。
有岡城の落城は一五七九年十一月。村重は落城前に城を出て尼崎へ移りました。妻子と家臣を残したままです。
残された者たちの処刑は事実です。一族の主だった者が尼崎近くで処刑され、五百余りが京の六条河原で処刑されました。当時の記録に詳細が残っており、信長の処断の中でも特に苛烈なものとして知られます。
村重自身は生き延び、後に茶人・荒木道薫として秀吉に仕えました。
書院での光秀と村重の会話は、すべて創作です。「羨ましい」という言葉も、答えない村重も、本作が作ったものです。
村重が何を求めていたのか、なぜ答えなかったのかは、四百年間分かっていません。
与える側が正しくても、受け取る側が何を求めているかは別の問題です。そして、求めているものを言わない相手には、与えようがありません。有岡は、その両方が起きた場所でした。




