【第三部 本編】 三 有岡
一五七八年十月 摂津・有岡城
荒木村重が謀反したという報せが来たとき、信長は最初、それを信じなかった。
二年前、摂津一国を村重に任せている。茶の湯の会に呼び、名物を与え、九鬼の水軍を預けた。石山を囲む要の位置に置いたのは、それだけの信を置いたからだ。
「理由は」
「不明にございます」
「聞いてこい」
使者が三度行った。三度とも、要領を得ない返事だけが戻ってきた。
四度目に、光秀が行くと言った。
光秀の娘が、村重の嫡男・村次に嫁いでいる。縁がある。信長は許した。
*
有岡城は、堀の水が濁っていた。
城内は静かだった。人はいる。だが誰も声を出さない。案内の者に従って歩きながら、光秀は違和感を覚えていた。籠城の前の城には、独特の高ぶりがある。それがない。
村重は書院にいた。茶碗を拭いていた。
「お久しゅうございます」
「うむ」
村重は顔を上げなかった。布を持つ手が動き続けている。
光秀は座った。
「日向守殿が来られると聞いて、驚きました」村重が言った。「殿は、まだ諦めておられぬのですな」
「殿は、理由をお知りになりたいのです」
「理由」
「はい」
村重は茶碗を置いた。
「日向守殿は、何と思われる」
「分かりませぬ。だから伺いに参りました」
村重は少し笑った。
光秀は言葉を選んだ。ここで何を言えばいいか、来る道中ずっと考えていた。
「摂津一国は、殿がお預けになったものです」
「はい」
「名物も、水軍も」
「はい」
「それだけの信を置かれた相手に、殿は背かれた理由を尋ねておられる。斬るとは仰せになっておりませぬ。尋ねておられるのです」
「日向守殿」
「はい」
「それは、道理でございますな」
光秀は黙った。
村重の言い方には、皮肉がなかった。本当に、道理だと言っている。それだけに、何も届いていないことが分かった。
光秀は続けた。殿の目指しておられるところは、摂津一国の話ではない。畿内に人と物と銭が回る形を作ろうとしておられる。摂津はその要にあたる。村重殿がそこにおられることには意味がある。そういうことを、順を追って話した。
話しながら、光秀は自分の言葉が薄いのを感じていた。
本当は、もっと先まで言えることがある。殿がなぜそれをなさるのか。なぜ人を組み込もうとし、なぜ組み込めなかった者を滅ぼすのか。あの方が読んでおられるものが何であるのか。
あの日の道三の顔がよぎる。
言えなかった。いや、言う必要もなかった。
村重は最後まで聞いた。
「日向守殿は、殿のことを、よくご存じでいらっしゃる」
「いえ」
「羨ましい」
光秀は顔を上げた。
「村重殿」
「はい」
「なぜでございます」
村重は答えなかった。
庭を見ていた。池がある。手入れがされていない。落ち葉が浮いたままになっていた。
「なぜだ、と聞いております」
村重は光秀のほうを見た。見て、それだけだった。
答えはなかった。
光秀は半刻ほどそこにいた。その間に、村重が口にしたのは茶の話だけだった。
*
有岡が落ちるまで、一年かかった。
途中で村重は城を出た。妻子も家臣も置いたまま、尼崎へ移った。城を明け渡せば助命すると信長は言ったが、村重は明け渡さなかった。
一五七九年十二月、有岡に残されていた者たちが引き出された。
女と子供を含めて、五百余りが京の六条河原で斬られた。荒木一族の主だった者は、尼崎の近くで磔にされた。
光秀の娘は、その前に離縁されて坂本へ戻っていた。
娘は何も言わなかった。光秀も何も聞かなかった。
半年ほど、娘は部屋から出なかった。
*
処刑の報せを聞いた夜、光秀は一人で書を開いた。
人を用いるくだりを読んだ。強みの上に築け、と書いてある。人に責任と権限を与えよ、と書いてある。殿は、その通りになさった。摂津一国を与え、名物を与え、水軍を預けた。書のどこにも、間違いはない。
それでも、あの男は離れた。
光秀は書を閉じた。
自分が足りなかったのだ、と思った。
もっと言いようがあったはずだ。あの日、書院で。自分は道理しか言わなかった。道理では人は動かぬ。それを一番よく知っているはずの自分が、道理しか言えなかった。
言えなかったのではない。
言わなかったのだ。
光秀は灯りを消した。




