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本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第一部

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【第一部 解説】 一 稲生

■ 強みで選び、真摯さで落とす


 信長が稲生の前夜に開いたのは、人事の原則です。


『人の弱みではなく強みを見よ。仕事をその人の強いところに合わせよ。弱いところは、無いものとして扱え。』


 ドラッカーが繰り返し書いた原則で、現代の組織でも最も強力なものの一つです。欠点の矯正に費やされる時間は、たいてい回収されません。欠点が直っても平均になるだけで、平均からは成果が出ないからです。人が雇われるのは、できることのためであって、できないことのためではありません。


 信長はこれを正確に適用しています。


 柴田権六には槍だけをやらせました。林秀貞には勘定だけをやらせました。二人とも前日まで敵です。負けた側の将を二人とも元の職に戻したことになります。当時の常識から外れた人事でした。「使えるものを捨てるほど、俺は豊かではない」という言い方は、感情を排して能力だけを見ています。


 実際、二人はその後よく働きました。原則は当たっています。


 問題は、弟でした。


 信長は信勝の強みを「人が付くこと」と読みました。読み自体は正しい。母に好かれ、家老に好かれ、寺の坊主にまで好かれる。それは信長にないものでした。だから使えると考えたのです。


 ですが、原則には続きがあります。


『技は教えられる。知は授けられる。人を使う法も学べる。だが、まことのあるなしは学べぬ。』


 ドラッカーが真摯さ(integrity)と呼んだものです。彼はこれを、唯一、後から身につけることのできない資質としました。そして、これを欠く者を上に置いてはならない、と書いています。


 理由は、その一人が仕事をしくじるからではありません。どれほど有能でも、真摯さを欠く者が上にいれば、人が壊れ、気風が壊れ、成果が壊れる。ドラッカーはそう書きました。


 上に立つ者の真摯さの有無を、下の者は必ず見抜きます。見抜いた瞬間から、組織は腐り始めます。


 強みを見よ、という原則と、真摯さだけは例外だ、という原則は、必ずセットで読まなければなりません。片方だけを読めば、人事は一度は必ず失敗します。


 信長は片方だけを読みました。


 弟の強みを見て、弟の真摯さを見なかった。答えは四枚あとに書いてありました。気づいたのは一年後、弟を殺した夜です。


 この章の失敗は、原則を知らなかったことではありません。原則を知っていて、その隣の頁を読まなかったことです。


 実務でも同じことが起きます。使える手法を一つ覚えると、人は適用することに集中し、その手法の限界が書かれた部分を読み飛ばします。限界は、たいてい目立たないところに書いてあります。


 信長は書に、見分ける方法を探しました。書いていませんでした。書いてあったのは、見分けそこねればどうなるか、それだけでした。


 原則は、答えを与えません。問いの立て方を与えるだけです。


■ 史実では


 稲生の戦いは一五五六年八月、実際にありました。信長方が劣勢だったこと、信長が自ら前に出て大声を上げたこと、それで敵兵が退いたことは『信長公記』に記されています。


 戦後、信勝も林秀貞も柴田権六も許されました。これは事実です。当時としては異例で、通常なら少なくとも所領は削られます。


 翌年、信勝が再び兵を集め、柴田がそれを信長に告げました。信長は仮病を使い、見舞いに来た弟を清洲城で殺しています。柴田がなぜ通報したのかは、記録にありません。


 林秀貞はその後、二十四年にわたって織田家中で働き続け、一五八〇年に追放されます。追放の理由として挙げられたのが、この稲生のときの謀反でした。


 一方、信長が家臣の何をどう評価していたかは、どこにも書かれていません。本作で信長が数え上げる「林の強み」「柴田の強み」「信勝の強み」は、すべて創作です。信長が人を能力で選んだことは結果から推測できますが、本人がそれをどう言語化していたかは分かりません。


 一度許して二度目に殺したという事実を、失敗と読むか、計算尽くと読むか。本作は前者を取りました。史料はどちらとも言っていません。


 ただ、どちらであっても、この章が示すことは変わりません。


 人を選ぶときに見るべきものは、二つあります。強みと、真摯さです。強みは仕事の成果を決め、真摯さは組織が腐るかどうかを決めます。前者は後から伸ばせますが、後者は後から与えられません。


 だから順番があります。真摯さを欠く者は、どれほど強みがあっても上に置かない。そのうえで、残った者を強みで使う。


 信長は逆をやりました。強みだけを見て選び、真摯さは見ませんでした。書には両方書いてあり、片方だけを読んだのです。

次回は本編です。

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