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本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第一部

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【第一部 本編】 一 稲生

一五五六年八月 尾張・稲生



 道三が死んで四か月後、弟が兵を挙げた。


 信勝は末森城にいる。母がそこにいる。家老の林秀貞と柴田権六がついている。林は父の代からの筆頭家老で、柴田は織田家で一番槍が使える男だった。


 清洲に残ったのは、七百に足りなかった。


 報せを受けた夜、信長は書を開いた。


 四か月、毎晩そうしていた。義父が遺した綴じは、はじめの数十枚を読んだところで一度止まっていた。文の意味は取れる。だが、何の話をしているのかが分からない。国を治める話でもなく、戦の話でもない。人を使う話らしい、というところまでは分かった。


 その晩、信長が開いたのは、こういう箇所だった。


『人の弱きを見るな。強きを見よ。人を用いるとは、その者の強きところに仕事を合わせることである。弱きところは、無きものとせよ。』


 信長は考えた。


 林の強みは何だ。三十年、織田の内向きを回してきた。誰がどこに田を持ち、誰と誰が仲が悪いか、全部知っている。あれがいなければ、清洲の勘定は止まる。


 柴田の強みは分かりやすい。あの男が先頭に立てば、兵は前に出る。


 信勝の強みは何か。


 信長はそこで、少し長く考えた。


 人が付く。それが弟の強みだった。柔らかい物言いをする。母に好かれ、家老に好かれ、寺の坊主にまで好かれる。自分にできないことだ。


 信長は書を閉じた。



              *



 八月二十四日、稲生の村の外れで両軍が当たった。


 信勝方は千七百、信長方は七百。


 最初に崩れたのは信長方の右だった。柴田が突っ込んできた。あの男が来ると、兵が退く。押し返せない。


 信長は馬を降りた。


 降りて、前に出た。


 そして、大声を出した。


 名前を呼んだ。柴田方の兵の名を、一人ずつ呼んだ。この数年、清洲で顔を見ている連中だった。名を呼ばれた者は、足を止めた。


「その方ども、俺の顔を忘れたか」


 止まった者から、じりじりと下がり始めた。


 柴田は舌打ちして退いた。


 その日のうちに、信勝方は末森へ引いた。


 死んだのは四百五十ほど。ほとんどが信勝方だった。



              *



 末森を囲んだ日、母が使いを寄越した。


 信勝の助命を願うという書状だった。


 信長は書を開いた。


 あの一行を、もう一度読んだ。


『人の弱きを見るな。強きを見よ。』


 信長は書を閉じ、母への返事を書いた。


 信勝を許す。林も柴田も許す。所領はそのままとする。


 小姓が驚いた顔をした。信長はそれを見て、何も言わなかった。


 柴田を呼び戻したのは、その半月後だった。


「権六」


「はっ」


「お前は、槍が使える」


 柴田は平伏したまま動かなかった。


「使えるものを捨てるほど、俺は豊かではない。前に出ろ。それだけをやれ」


 柴田はしばらく顔を上げなかった。


 上げたとき、目が赤かった。


「・・・はっ」


 林も同じように呼び戻した。林は柴田ほど分かりやすい反応をしなかった。ただ、勘定の帳面を持って戻ってきて、翌日から前と同じように働いた。


 信勝には、末森をそのまま与えた。


 信長はそのとき、うまくいったと思った。



              *



一五五七年十一月 尾張・清洲



 一年経った。


 信勝がまた兵を集めているという報せは、柴田が持ってきた。


 柴田は平伏して、それを言った。言ってから、しばらく額を上げなかった。


「まことか」


「まことにございます」


「誰から聞いた」


「勘十郎さまが、それがしにお命じになりました。もう一度やる、と」


 信長は柴田を見た。


「お前に命じたのか」


「はっ」


「お前は、それを俺に言いに来たのか」


「はっ」


 信長は黙っていた。


「なぜだ」


 柴田は答えなかった。答えられなかったのかもしれない。


 信長は立ち上がって、部屋を出た。



              *



 病と称して、信長は寝込んだ。


 母を通じて、信勝に見舞いを求めた。


 信勝は来た。


 清洲の北の櫓で、信長は待っていた。寝間着のままだった。信勝が入ってきて、廊下に膝をついた。


「兄上」


「入れ」


 信勝が入った。


 信長は起き上がっていた。


「勘十郎」


「はい」


「お前は、なぜ人に好かれる」


 信勝は答えなかった。質問の意味が分からない顔をしていた。


「俺には、それがない」信長は言った。


「昔からだ。お前が母上のそばにいて、俺は外にいた。それでよかった。俺はお前のそれが要る。お前は俺のこれが要る。二人でやれば足りると思っていた」


「兄上、それがしは」


「一年やった」


「はい」


「一年、そのままにした」


 信長は立ち上がった。


 襖の向こうで、人の動く音がした。


 信勝の顔が変わった。


「兄上・・・」


「お前の良いところは、人が付くことだ」信長は言った。


「それが、俺には一番いかん」


 襖が開いた。


 信勝は逃げようとした。廊下に出たところで、押さえられた。声を上げようとして、上げられなかった。


 終わるまで、信長は部屋にいた。


 出ていかなかった。



              *



 その夜、信長は書を開いた。


 あの一行を探した。『人の強きを見よ』というくだり。何度も読んだ場所だから、すぐに見つかった。


 読んだ。間違っていない。書いてある通りにやった。柴田は使えた。林も使えた。


 信長は、続きを読んだ。


 同じ章の、四枚ほど後だった。


『ただし、一つだけ、後から与えることのできぬものがある。技は教えられる。知は授けられる。人を使う法も学べる。だが、まことのあるなしは学べぬ。まことなき者を上に置けば、その組は必ず腐る。腐るのは上ではなく、下からである。』


 信長は、その箇所を読んだ覚えがなかった。


 開いた形跡はある。頁の端が折れている。読んだのだ。読んで、通り過ぎたのだ。


 信長はその一行を、指でなぞった。


 それから、灯りに近づけて、もう一度読んだ。


 まことのあるなしは学べぬ。


 弟は、一度目に許されたとき、二度目をやると決めていたのだろうか。それとも、許されたから二度目をやったのだろうか。


 信長には分からなかった。


 どちらでも同じだった。書には、それを見分ける法は書いていない。書いてあるのは、見分けそこねればどうなるか、それだけだった。


 信長は書を閉じた。


 閉じてから、しばらく表紙を見ていた。


「・・・遅い」


 誰にともなく、そう言った。


 それから、また開いた。


 その晩、信長は最初から読み直した。四か月前に読んだところも、飛ばしたところも、全部だ。夜が明けても読んでいた。


 所々に、意味の取れない箇所があった。人を使う話をしていたはずが、急に別の話になる。前がないのだ。話の途中から始まっているように読める。


 こういう一行があった。


『人は、糧のみにては生きられぬ。人はおのれの居場所を欲する。』


 前とも後とも繋がらない。人の使い方の話の途中に、これだけが挟まっている。


 義父の癖だろう、と信長は思った。


 あの人は、要らぬと思ったことは書かない。そういう人だった。


 信長はそこを飛ばして、先へ進んだ。

次回は解説です。

この章で使われた原則と、どこまでが史実かを書いています。

物語だけ読みたい方は、飛ばして次の本編へどうぞ。

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