【プロローグ】 蝮(まむし)の遺言
一五五六年四月 美濃・長良川
雨が上がったばかりで、川原の石が濡れていた。
道三は床几に腰を下ろしたまま、川向こうを見ていた。義龍の旗が並んでいる。数えるまでもない。こちらの四倍はある。
背後で誰かが甲冑を鳴らした。
振り返ると、若い男が立っていた。二十を少し過ぎたくらいだろうか。美濃の生まれで、名を明智十兵衛といった。何年か前から、書物の写しをさせるのに使っている。字がきれいで、間違えない。それだけの理由で側に置いていた男だった。
「殿」
「戻れと言ったはずだ」
「はい」
十兵衛はそう言ったきり、動かなかった。
道三は舌を鳴らした。この男のこういうところが好きではない。逆らうのではない。ただ、動かない。
「戦にはならん」道三は言った。
「向こうは四千、こちらは千に足りん。それも半分は今朝方に逃げた」
「はい」
「儂は死ぬ」
「はい」
道三は笑った。否定しないところが、この男だ。
床几の脇に、油紙で包んだものが置いてある。
道三はそれを取り上げて、膝の上で紐を解いた。中から出てきたのは一冊の綴じだった。表紙は擦り切れて、もとの色が分からない。厚みは一寸ほどある。
「これを持って行け」
十兵衛は動かなかった。
「聞こえんか」
「・・・何の書物にございますか」
「読めば分かる」
道三はそれを差し出した。十兵衛は両手で受け取った。受け取ってから、包みの重さに少し驚いたようだった。
「儂には要らん」道三は言った。
「もう使うところがない」
川向こうで法螺が鳴った。長く、二度。渡河の合図だ。
道三は立ち上がった。膝が鳴った。近ごろ、この音が大きくなった。
「三つ、言っておく」
十兵衛が顔を上げた。
「一つ。その書を持っていることを、誰にも言うな。誰にもだ」
「はい」
「二つ。尾張のうつけを助けろ」
十兵衛の眉が動いた。
「・・・信長さまを、でございますか」
「あれは儂の婿だ。それに、あれ以外に美濃をくれてやる相手がおらん」
道三は具足の緒を締め直した。指がうまく動かない。二度やり直した。
「三つ目は」
道三は顔を上げなかった。緒を見ていた。
「三つ目は・・・」
法螺がまた鳴った。今度は短く、続けざまに。
道三は十兵衛を手招きした。十兵衛が寄った。道三は耳元で何か言った。三十字にも満たない、短い言葉だった。
十兵衛は動かなかった。しばらく、まったく動かなかった。
「それは」十兵衛が言った。「いつ、でございますか」
「知らん」
「殿」
「儂が知るか」
道三は具足の緒から手を離した。締まっていなかったが、もうどうでもよかった。
「向こうが決めることだ。お前が決めることではない」
「もし、その時が来なければ」
「来なければ、それまでだ」
道三は歩き出した。川に向かってではなく、馬のほうへ。
「行け」と背中で言った。
「お前が死んでも、儂は何とも思わん。だが、その書が焼けるのは惜しい」
十兵衛は書を胸に抱えたまま、その場に立っていた。
道三は一度だけ振り返った。
「十兵衛」
「はい」
「儂は、お前を買ってはおらんぞ」
「存じております」
「字がきれいなだけだ」
「はい」
道三は馬に乗った。乗るのに、若い者が二人がかりで支えた。
鞍の上で、道三はもう一度だけ川向こうを見た。義龍の本陣に、見覚えのある旗が立っている。二十年前、自分がこの国を獲ったときに使っていた旗だった。
「・・・是非に及ばず」
誰にともなく、道三は言った。
そして馬腹を蹴った。
*
その日のうちに、道三は討たれた。
首は義龍の陣に運ばれ、胴は川原に残された。誰も片づけなかったので、三日ほどそこにあった。
*
一五五六年四月 尾張・清洲
使いが来たのは、五日後の夕方だった。
信長は縁側にいた。膝を立てて座り、庭の枇杷の木を見ていた。実がつき始めているが、今年は少ない。
帰蝶が入ってきた。手に、油紙の包みを持っている。
「美濃から」
「知っている」
「父が」
「聞いた」
信長はそれきり何も言わなかった。帰蝶も何も言わなかった。二人とも、枇杷の木を見ていた。
しばらくして、帰蝶が包みを置いた。畳の上に、乾いた音がした。
「譲り状が入っておりました」
「何の」
「美濃を、殿に譲ると」
信長は鼻から息を出した。笑ったのかもしれなかったが、顔は動かなかった。
「持っていない国を、譲るか」
「父らしゅうございます」
「そうだな」
信長は包みを引き寄せた。紐を解くと、書状が一通と、その下に厚い綴じが入っていた。
書状を先に読んだ。短いものだった。読み終えて、脇に置いた。
次に、綴じを取り上げた。
表紙には何も書かれていない。擦り切れて、もとが何色だったか分からない。角が丸くなっていて、開き癖がついている。何度も繰られた本の形だった。
開いた。
義父の字だった。
信長は少し驚いた。
義父の字なら、書状で何度も見ている。癖のある、右に流れる字だ。それが、この厚みの分だけ続いている。
最初の行を読んだ。
読んで、もう一度読んだ。
三度目を読んでいるとき、帰蝶が何か言った。信長は聞いていなかった。
「殿」
「何だ」
「何と書いてございますか」
信長は答えなかった。頁を繰った。次を読み、その次を読んだ。
庭が暗くなってきた。帰蝶が立って、灯りを持ってきた。信長はそれにも気づかない様子だった。
やがて、信長は顔を上げた。
「帰蝶」
「はい」
「お前の父は、これを誰から貰った」
「存じません」
「そうか」
信長は綴じを閉じた。閉じてから、しばらく表紙を見ていた。
「戦の書ではない」信長が言った。
「では、何の書にございますか」
信長は答えを探しているようだった。探して、見つからなかったらしい。
「分からん」
そう言って、また開いた。
その夜、信長は寝なかった。
翌朝、清洲の家臣たちは、当主が一睡もしていないのを見た。誰も理由を聞かなかった。聞いても答えないことを、みな知っていた。
その四か月後、弟の信勝が兵を挙げた。
この作品は、本編のあとに解説を置く形で進みます。
解説では、その章で信長が使った原則と、どこまでが史実でどこからが作り話かを書いています。
物語だけ読みたい方は、飛ばして次の本編へどうぞ。
次回から本編が始まります。




