【第三部 本編】 二 道
一五七六年 尾張・岐阜街道
道を広げよ、という命が出たのは、安土に城を築き始めた年である。
尾張、美濃、近江の主な道を、三間半に広げる。脇に一間ずつ、人が歩く分を取る。両側に松と柳を植える。橋を架ける。
村井貞勝が、その触れを読んで首をひねった。
「殿。三間半と申しますと」
「馬が三頭並ぶ」
「はい。ですが、そこまで要りましょうか」
「要る」
信長はそれ以上言わなかった。
村井は下がってから、丹羽に聞いた。
「五郎左殿。あれは、兵を早く動かすためにございましょうか」
「そうであろう」
「ですが、松を植えよと仰せです」
「松」
「はい。道の両側に、松と柳を」
丹羽も首をひねった。
「日陰か」
「日陰でございましょうか」
二人とも分からなかったので、そのままやった。
*
道は、二年でだいたい通った。
人足を集め、村ごとに割り当て、手当を出した。手当は銭で出した。米ではなく銭で出したので、村に銭が入った。
銭が入った村では、鍬を買った。鍋を買った。塩を買った。
道が広くなると、荷車が通れるようになった。それまでは馬の背に振り分けていたものが、車で運べる。一度に運べる量が、三倍になった。
三倍になると、値が下がった。
塩の値が、内陸で下がった。
美濃の山の村に、それまで年に二度しか塩が来なかった。来るときは高かった。買えぬ者は、その年は塩なしで過ごした。
道が通ってから、月に一度来るようになった。値は半分になった。
松は、十年で育った。
夏に日陰ができた。旅の者はその下で休んだ。冬は風よけになった。
村井貞勝がそれに気づいたのは、道が通って四年ほど経ってからである。
気づいてから、殿はそこまで見ておられたのか、と思った。
思ったが、確かめなかった。
*
一五七七年六月 近江・安土
楽市の触れが出たのは、安土の城下がまだ半分しかできていない頃である。
全部で十三か条あった。
この町は楽市とする。座に入らずとも商いができる。諸役をかけぬ。押し買い、押し売りを禁ずる。他所の商人が来ても、宿を強いてはならぬ。街道を通る者は、必ずこの町に泊まれ。
徳政が出ても、この町の借りは消えぬ。
これが、商人にとっては一番大きかった。
徳政令というのは、借金を帳消しにする触れである。飢饉や戦のあとに出る。出れば、貸した者は損をする。だから、貸す者は用心する。貸さぬか、利を高く取るか、どちらかだ。
安土では、それがない。
貸した銭は、必ず返ってくる。
だから、貸す。安く貸す。安く借りられるから、商人は仕入れを増やす。仕入れが増えれば、店が大きくなる。
その触れを見て、堺の今井宗久が言ったという。
あの方は、商いをしたことがないはずだが。
*
岐阜の商人衆に、安土へ移れという達しが出たのは、その翌年である。
移らぬ者は、商いを認めぬ、とあった。
商人たちは揉めた。岐阜には店も蔵もある。何十年もそこでやってきた。それを捨てて、まだ半分しかできていない町へ来いという。
結局、大半が移った。
移った者は、翌年には岐阜にいた頃の倍を売っていた。
街道が付け替えられていたからである。
中山道から京へ行くには、それまで安土を通らなかった。信長は道を直し、安土を通らねば行けないようにした。
通れば、泊まる。泊まれば、買う。
安土には、年に何万という人が通るようになった。
*
同じころ、光秀は丹波にいた。
三年、まだ落ちていない。八上の波多野が粘り、黒井の赤井が粘る。山が深く、道がない。城を囲めば、別の城から出てくる。
光秀は、まず道を作った。
亀山に城を築き、そこから北へ道を通した。荷が通るようにした。荷が通れば、兵糧が続く。兵糧が続けば、囲みを解かずに済む。
道を作りながら、これはあの人の真似だと思った。
真似ではあるが、意味は分かってやっている。
道を通せば、兵が動く。それだけではない。道が通った村は、翌年から様子が変わる。市が立つ。人が来る。人が来れば、その村は織田に付く。
落とさなくても、付く。
丹波の村がいくつか、そうやって変わっていった。
光秀はそれを見て、書のことを考えた。
あの書には、こう書いてある。
『思いがけず実ったものを見よ。狙って実ったものより、狙わずに実ったもののほうが、次を教える。人はたいてい、狙いどおりでないものを失敗と呼んで捨てる。捨てる前に、それが何であったかを問え。』
道は、兵のために作った。
実ったのは、市だった。
あの人は、それを見ておられるだろうか。
見ておられる、と光秀は思った。安土がそれだ。あれは、狙わずに実ったものを、狙って作り直したものだ。関を潰したら物が動いた。物が動いたら人が動いた。人が動くなら、人が集まる場所を作ればいい。
あの人は、そこまで来ておられる。
光秀は道の普請場に立って、そう思った。
北のほうで、まだ城が二つ残っていた。




