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本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第三部

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【第三部 解説】 一 設楽原

■ 技に頼らない


 この戦の勝敗は、三年前に決まっていました。


 二十日の夜、信長が佐久間に聞きます。武田の玉と薬は、いくつある。佐久間は答えられません。


 硝石は日本でほとんど採れません。南蛮から入り、堺に着きます。堺は信長が押さえている。だから、三年前から甲斐へ行く荷を止めていました。堺で止め、若狭で止め、伊勢で止め、鉛も止めた。


「あれらは鉄砲を持っている。数はこちらと変わらん。持っているだけだ」


「明日、勝頼は出てくる」

「なぜ、そう言い切れまするか」

「出てこねば、玉が腐る」


 当日の戦闘について、この作品は通説を否定しています。三列に並んで順に撃ったという話は広まっていますが、実際にはそこまで整っていませんでした。鉄砲の出所も、玉の大きさもばらばらです。


 整っていたのは、玉と薬の量だけでした。


 撃っても、撃っても、無くなりませんでした。


 ドラッカーは、組織の目的を一行で書いています。凡人をして非凡なことを行わしめること。


 非凡な人間を集めることではありません。集められる数には限りがあり、育てるには年月がかかり、育った者は死にもすれば去りもします。組織が成果を上げるのは、普通の人間が普通に働いて成果が出る形を作れたときです。


 技能は人につきます。優れた職人がいれば優れた製品ができますが、その職人が辞めれば終わりです。だから、技能を要さない形に作り替えます。手順を分解し、標準化し、訓練期間を短くする。一人一人の質は下がりますが、全体としては安定します。


 この章の後半に、その帰結が出てきます。


 夕方、原に出た信長が、十九の足軽と話します。尾張中村の在の出身で、戦は初めて。鉄砲は三月に教わった。


「構えて、狙って、引くだけにございます。教えてくださった方が、そのように」


 誰を撃ったかは分かりません。前にいた者を撃った。馬に乗っていた。立派な具足だった。


 武田の名のある者が、十人以上死んでいます。山県、馬場、内藤、原、真田。信玄の代からの、三十年戦ってきた武士たちです。


 三月教えた百姓が、三十年やってきた武士を殺しました。遠くから、顔も見ずに。


『事を為すのに、人の技に頼るな。技は人につく。人は死に、人は去る。技に頼る組は、その人が去れば終わる。技を要さぬ形に作り替えよ。』


 その通りにやり、その通りになりました。


 ここで見ておくべきことが、二つあります。


 一つは、この原則が何を可能にしたかです。


 武田の強さは、人の質にありました。優れた騎馬武者を育てるには年月がかかります。信玄はそれを二十年かけて積み上げました。積み上げたものは、確かに強かった。


 ですが、積み上げに時間がかかるものは、失ったときの回復にも同じ時間がかかります。設楽原で死んだ将は、補充できません。


 信長の側は、三月の訓練で補充できます。


 もう一つは、この原則が何を犠牲にするかです。


 十九の足軽は、自分が何をしたかを知りません。誰を殺したのか分からず、立派な具足だったとしか言えない。技能を要さない仕事は、意味も要しません。手順が分かっていれば、目的を知らなくても実行できます。


 これは効率の話として見れば長所です。教える内容が減り、人を選ばずに済み、代替がききます。


 現代の組織で仕事を標準化するとき、同じことが起きます。手順書を整備し、判断の余地を減らせば、誰がやっても同じ結果が出るようになります。品質は安定し、教育費は下がります。


 その代わり、やっている人は自分の仕事の意味を知らなくなります。知らなくても回るように作ったからです。


 もう一つ、この章では調達の遮断が扱われています。


 これは書に書いていません。光秀もそれに気づきます。


 力を一点に集めよとは書いてある。時を惜しめとも書いてある。だが、三年前から相手の荷を止めておけ、とは書いていない。


 あれは、あの人が自分で考えたことだ。


 実際、これは原則ではなく応用です。相手の事業がどこに依存しているかを調べ、そこを押さえる。原則から導けるものではなく、具体的な事情を調べて初めて出てくる手です。


 三年前、武田はまだ信玄が生きていて、上洛すると言って西へ出てきていました。織田が追い詰められていた時期です。その時期に、信長は硝石の流通を押さえていました。


 勝つ準備を、いちばん負けそうなときに始めています。


■ 史実では


 長篠・設楽原の戦いは一五七五年五月二十一日。織田・徳川連合軍が武田勝頼を破ったことは事実です。


 馬防柵を築いたこと、鉄砲を大量に用いたことも記録されています。ただし、三段撃ちについては現在では否定的な見方が主流です。『信長公記』にその記述はなく、後世の軍記物に由来します。


 鉄砲の数も諸説あります。三千挺とする説、千挺程度とする説があり、確定していません。


 武田の宿将が多数戦死したことは事実です。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟らが討死しました。武田家がこの損害から回復できず、七年後に滅亡したことも、結果として残ります。


 硝石の輸入依存は事実です。日本国内では良質の硝石がほとんど採れず、南蛮貿易を通じて輸入されていました。堺が主要な流通拠点だったことも確かです。


 ただし、信長が三年前から意図的に武田への流通を遮断していた、という記録はありません。堺を掌握していたこと、武田が硝石の入手に苦労していた形跡があることから、本作が組み立てた設定です。


 実際には、武田領が内陸で海に面していないという地理条件が主因だった可能性が高いと考えられます。意図的な遮断ではなく、構造的な不利です。


 十九の足軽との会話も創作です。


 ただ、鉄砲という道具が戦の性質を変えたことは確かです。刀や槍は、扱えるようになるまで年月がかかります。鉄砲は、構えて狙って引くだけです。訓練期間の差が、そのまま兵の補充速度の差になりました。


 技に頼る組織は、その人が去れば終わります。技を要さない形に作り替えれば、終わりません。設楽原は、その差が一日で出た戦でした。

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