【第二部 解説】 五 槇島
■ 陳腐化した権威が残る理由
義昭は、諸国の大名に書状を出しました。信長を討て、という内容です。
返事が来ました。武田が動く。朝倉が動く。浅井が動く。本願寺が動く。毛利も、上杉も。
義昭は上機嫌でした。わしが一言、書を出しただけで、天下が動くのだ。
実際、その通りでした。この時点で義昭には兵も領地もほとんどありません。それでも諸国の大名は返事を寄越しました。将軍という名に、まだそれだけの力があったからです。
ドラッカーは、事業の定義が現実と合わなくなっても、しばらくは成果が出続けると書いています。
これが厄介なところです。定義が古びても、すぐには止まりません。過去に築いた関係、信用、慣行が惰性で動き続けるからです。数字は落ちますが、ゼロにはならない。だから経営者は、まだ大丈夫だと判断します。
実際に止まるのは、かなり後になってからです。そして止まったときには、手が打てなくなっています。
義昭と光秀の会話が、この章の中心です。
義昭の言い分は、それ自体としては筋が通っています。
「大名が争えば、わしが仲を取り持つ。取り持てば、双方が恩に着る。恩に着れば、次も従う。そうやって、二百年やってきた。それが将軍というものだ」
これは事業の定義です。将軍とは何をする者か、という問いへの答えになっています。仲裁し、恩を売り、その積み重ねで従わせる。二百年機能してきた仕組みでした。
光秀が対置するのは、別の定義です。
「京の市が、去年の倍になりました。淀の船着きは、荷が置ききれませぬ。堺の者が、伊勢まで店を出し始めております」
「それが何だ」
「動いておりまする」
義昭は「それは商人の話だ。わしがしておるのは、天下の話だ」と返します。
噛み合っていません。二人は「天下」という同じ言葉を、別の意味で使っています。
義昭にとって、天下とは大名の集合です。大名を従えることが天下を取ることであり、そのための道具が将軍という名です。
信長にとっては違います。ですが、光秀もそれを説明する言葉を持っていません。
光秀が最後に投げた問いが、この章の核心です。
「仕組みで人が動くとしたら、いかがなさいます」
「仲を取り持たずとも、恩を売らずとも、人が勝手に動く形があるとしたら」
義昭の答えは、こうでした。
「そのようなものがあるなら、将軍職は何のためにある」
光秀は答えられませんでした。答えがあるとすれば、要らなくなる、という答えだけだからです。
ここで確認しておくべきことがあります。
義昭は愚かではありません。この問いは、正確に核心を突いています。
自分の職能が不要になる可能性を、義昭は一瞬で理解しました。理解したからこそ、それを受け入れられませんでした。
ドラッカーは、事業の定義を問い直す作業が、実際にはほとんど行われないと書いています。理由は、この問いが自分自身に向かうからです。
われわれの事業は何か、という問いに正直に答えると、しばしば「その事業はもう必要とされていない」という結論が出ます。その結論を出せる人は、多くありません。出せば、自分の存在理由を否定することになるからです。
義昭は答えを知っていました。知っていて、問いを閉じました。
この章の後半で、光秀は選択をします。
義昭からの書状に、返事を書きませんでした。書かないまま月が変わり、それが返事になりました。
十年仕えた相手です。恩もあります。ですが、書のことを言っても分からない。言う気にもならない。あの人は将軍という形の中でしか物を見ず、形の外に何かがあるとは思っていない。
もう一方の人は、形を作る側にいる。
この選び方が、後に効きます。光秀は、通じる相手を選びました。通じることを、確かめずに。
最後に、この章の末尾を見ておきます。
義昭は追放されましたが、殺されませんでした。備後へ移り、そこからなお書状を出し続けます。諸国の大名は、それに返事を書き続けました。
将軍という名は、その後も十五年、残りました。
定義が陳腐化しても、名は残ります。名が残る限り、それに応じる人がいます。応じる人がいる限り、名は少しずつ意味を失いながら、しかし消えません。
完全に消えるまでには、たいてい、その名を作った人が全員いなくなるだけの時間がかかります。
■ 史実では
義昭と信長の対立、一五七三年二月の挙兵、四月の上京焼き討ち、七月の槇島城での再挙兵と降伏、追放。いずれも事実です。
義昭が諸国に御内書を出し、信長包囲網を形成したことも記録に残ります。武田信玄、朝倉義景、浅井長政、本願寺、毛利、上杉。多くの大名が呼応しました。
武田信玄が一五七三年四月に死去し、義昭がそれを知らなかった可能性が高いことも、おおむね認められています。
追放後の義昭は毛利氏を頼り、備後鞆に移りました。そこで将軍として振る舞い続け、御内書を出し続けます。正式に将軍職を辞したのは一五八八年、豊臣政権下でのことです。追放から十五年後になります。
この間、諸国の大名が義昭の書状に返答し続けたことも事実です。実権がなくても、将軍という名は無視できませんでした。
二条御所での義昭と光秀の会話は、創作です。光秀がこの時期に義昭のもとを訪れた記録はありますが、内容は伝わっていません。
光秀が義昭を離れて信長に付いた経緯も、詳細は分かりません。段階的に織田側へ移っていったことは所領の記録から辿れますが、いつどのように決断したかは記録がありません。
将軍職の存在意義について、義昭自身がどう考えていたかも分かりません。
ただ、仲裁と恩によって従わせる仕組みと、人が勝手に動く仕組みは、両立しません。前者は仲介者を必要とし、後者は必要としないからです。どちらが優れているかという話ではなく、片方が広がれば、もう片方の職能が要らなくなる。その関係にあります。




