【第二部 解説】 四 叡山
■ 変われない事業
比叡山に対して、信長は三つの申し入れをしました。
味方せよ。味方するなら、押さえた山門領はすべて返す。
味方できないなら、中立を守れ。浅井・朝倉に手を貸すな。それだけでよい。
どちらも聞けないなら、残らず焼き払う。
一つ目は破格の条件です。二つ目は、何もしなくていいという話です。三つ目が何を意味するかも、明示されています。
返事はありませんでした。使者は門前で待たされ、そのまま帰されました。山門は俗事に関わらぬ、と。
その晩、朝倉の兵が山内に陣を移し、山門はそれを止めませんでした。
この章で光秀が指摘するのが、なぜ山門が答えられなかったのか、という構造です。
「山は、銭を貸します。関を持ちます。米を集めます。それは山の商いにございます。殿が関を潰し、座を壊し、銭の値を定められれば、山の商いは立ち行きませぬ」
「なれば、山が殿に従うことは、初めからできませなんだ。従えば、山が山でなくなりまする」
従えば自分でなくなる相手には、従うという選択肢がありません。
ドラッカーは、事業の定義には寿命がある、と書きました。
どんな事業も、ある環境を前提に組み立てられています。その環境が変われば、定義そのものが現実と合わなくなります。合わなくなったとき、定義を変えられる組織と、変えられない組織があります。
変えられない組織の特徴は、その定義が組織のアイデンティティと一体になっていることです。
比叡山にとって、関も、金貸しも、荘園も、単なる収入源ではありませんでした。宗教的権威と経済的基盤が一続きになっていて、切り離せない。信長の政策は、そのうち経済の部分だけを狙ったものでしたが、山門から見れば全体への攻撃と変わりません。
だから答えられませんでした。答えれば、自分が何者かを言い直すことになります。
現代の組織でも、同じ形の行き詰まりが起きます。
主力製品が陳腐化しても、その製品で会社が大きくなった記憶があると、捨てられません。捨てることが、自分たちの過去を否定することになるからです。新規事業の話は出ますが、いつも本体には手をつけません。
この状態は、外から見れば「変化を拒んでいる」ように見えます。内側から見れば、変化ではなく解体を要求されているように見えています。
信長の返答が、この章のもう一つの論点です。
「向こうにも言い分があると、お前は言う。あるだろう。だが、言わぬ言い分は、無いのと同じだ」
これは冷酷な言い分ですが、実務としては正確です。
交渉の場で言われなかったことは、交渉の材料になりません。相手が何を守ろうとしているのかを、こちらが推測して配慮することはできますが、それは交渉ではなく善意です。善意は、続きません。
山門は三度の申し入れに一度も答えませんでした。答えなかった理由は、光秀が推測した通りだったかもしれません。ですが、推測は記録に残らず、決定にも影響しません。
そして、この章の光秀は、書を開いて何も見つけられません。
乗らぬ者をどうするか。乗れぬ者をどうするか。
書いていない、と光秀は考えます。書いていないということは、書いた者も知らなかったということだ。
これは、原則の限界についての正確な観察です。
方法は、機能する範囲を持っています。人を使う法は、使える人がいる前提で成り立ちます。機会に注ぐ原則は、注げる機会がある前提で成り立ちます。どちらの前提も満たさない相手が現れたとき、方法は何も言いません。
言わないことを、書いた者が知らなかったからだと読むか、書く必要がなかったからだと読むか。
光秀は前者を取りました。
最後に、この章の末尾を見ておきます。
焼いた後、信長は坂本を光秀に与えました。焼いた本人に、焼けた町を渡したことになります。
光秀はそこに城を築き、港を作り、町を割り、人を呼び戻しました。五年で、坂本は前より大きくなりました。
通る者は、ここが焼けた町だと知りませんでした。
■ 史実では
比叡山焼き討ちは一五七一年九月十二日。事実です。
前年の志賀の陣で、浅井・朝倉が比叡山に入り、信長が動けなくなったことも記録に残ります。信長が山門に対して条件を提示したという話は『信長公記』にあり、山門領の還付を約束したこと、中立を求めたこと、応じなければ焼くと通告したことが記されています。
山門がそれに応じなかったことも事実です。ただし、山門側の事情を伝える史料は乏しく、なぜ応じなかったのかは分かりません。
犠牲者数は諸説あります。三千とも四千とも言われますが、根拠は明確ではありません。
近年の発掘調査では、この時期に焼失した痕跡が根本中堂と大講堂に限られること、他の建物の多くはそれ以前に廃絶していた可能性が指摘されています。比叡山の勢力は、焼き討ち以前からかなり衰えていたとする見方です。本作はこの説を取りました。
光秀が坂本の町を焼く役を命じられたという記録はありません。焼き討ちに光秀が参加したことは、書状などから確認されています。
焼き討ちの後、光秀が坂本を与えられ、城を築いたことは事実です。坂本城は琵琶湖に面した水城で、宣教師ルイス・フロイスが安土城に次ぐ壮麗さと記録しています。
書に答えがなかった、という光秀の思考は創作です。
ただ、従えば自分でなくなる相手に、従えと言っても意味がない。この構造自体は、当時の記録から読み取れます。山門は三度の申し入れのどれにも答えられませんでした。答える言葉を、持っていなかったからです。




