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本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第二部

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【第二部 本編】 四 叡山

一五七〇年九月 近江・志賀



 浅井が裏切ってから、五か月が経っていた。


 その間に、信長は四方から囲まれた。


 摂津で三好が動いた。それを叩きに大坂へ出たところで、石山本願寺が門徒に触れを出した。近江に戻ろうとすると、今度は浅井と朝倉が南下してきた。


 浅井・朝倉の兵は、比叡山に入った。


 山に入られると、手が出せない。麓の坂本を押さえても、上からいくらでも出てくる。信長は宇佐山に陣を置いて、そこで三か月動けなくなった。


 冬が来た。


 雪が降れば、山は攻められない。攻められないまま、こちらの兵糧が尽きる。


 信長は使者を出した。



              *



 使者が持っていったのは、三つの申し入れである。


 一つ。味方せよ。味方するなら、これまで織田が押さえた山門領を、すべて返す。


 二つ。味方できぬなら、せめて中立を守れ。浅井・朝倉に手を貸すな。それだけでよい。


 三つ。どちらも聞けぬというなら、根本中堂から山王二十一社まで、残らず焼き払う。


 使者は三日で戻ってきた。


 返事はなかった。


 会いもしなかった。門前で待たされ、そのまま帰されたという。


「まことに、何も言わなかったのか」


「はい」


「取り次ぎもせぬのか」


「山門は俗事に関わらぬ、と」


 信長は黙っていた。


 その晩、朝倉の兵が山内の鉢ヶ峰に陣を移したという報せが来た。山門はそれを止めなかった。


「俗事に関わらぬ、か」


 信長は誰にともなく言った。



              *



 冬の間、志賀の陣は動かなかった。


 十二月、朝廷が仲に入った。勅命の講和である。信長は受けた。受けるほかなかった。浅井・朝倉は越前へ引き、信長は岐阜へ戻った。


 戻る道で、信長は馬上から山を見ていた。


 供にいた者が、後にこう言っている。


 殿は一言も口をきかれなかった。山が見えなくなるまで、ずっとそちらを見ておられた。



              *



一五七一年九月 近江・坂本



 九月十二日の払暁、麓から火が出た。


 坂本の町に火をかけ、そのまま山へ上がった。二万を三方から入れた。逃げ道は塞いだ。


 根本中堂が焼けた。大講堂が焼けた。


 僧が斬られた。僧でない者も斬られた。女が斬られた。子供が斬られた。


 数は分からない。三千とも、四千とも言われている。


 昼過ぎには、山の上に立っている建物がほとんどなくなっていた。



              *



 その前の晩、光秀は宇佐山の城にいた。


 この年から、光秀は宇佐山を預かっている。義昭の家臣であり、織田の家臣でもある。どちらの禄も受けていた。


 夜、信長が城へ入ってきた。


 供は少なかった。明日の手配りを見に来たのだという。


 広間で、佐久間と柴田が図を広げていた。三方から入る道と、塞ぐ道が引いてある。


「十兵衛」


「はい」


「坂本の町は、お前が焼け」


「・・・はっ」


「町の者は、逃げる先がない。山へ上がる」


「上がれば」


「上で捕らえる」


 光秀は図を見た。


 塞ぐ道の印が、山の南と西と北にある。東は湖である。


「殿」


「言え」


「町の者まで、でございますか」


 信長は図から目を上げなかった。


「山門領の百姓だ。年貢を山に納めている。山が銭を貸し、山が米を集め、山が関を持っている。あれらは山の一部だ」


「・・・」


「切り離せぬ」


「殿。切り離せぬのは、山のほうにございましょう」


 信長が顔を上げた。


「言ってみろ」


「山は、銭を貸します。関を持ちます。米を集めます。それは山の商いにございます。殿が関を潰し、座を壊し、銭の値を定められれば、山の商いは立ち行きませぬ」


「そうだ」


「なれば、山が殿に従うことは、初めからできませなんだ。従えば、山が山でなくなりまする」


 信長は光秀を見ていた。


 しばらく、そのままだった。


「十兵衛」


「はい」


「それを、なぜ今言う」


 光秀は答えなかった。


「山門領を返すと言った。中立でよいとも言った。会いもせなんだ」


「はい」


「向こうにも言い分があると、お前は言う。あるだろう。だが、言わぬ言い分は、無いのと同じだ」


「・・・」


「明日、焼く」


 信長は図に指を戻した。


「坂本は、お前がやれ」


「承知いたしました」


 光秀は頭を下げた。



              *



 翌日、光秀は坂本を焼いた。


 命じられた通りにやった。町の者は山へ逃げ、山で捕らえられた者は斬られた。


 光秀は、その日、山へは上がらなかった。


 麓で指図をしていた。


 昼過ぎ、山の上が静かになった。煙が真っ直ぐに上がっている。風がなかった。


 光秀は床几に座って、それを見ていた。


 書のことを考えた。


 人を用いる法。時の使い方。力の集め方。事を決めるとき、何から始めるか。あの書には、いろいろなことが書いてある。


 だが、こういうときにどうすればよいかは、書いていない。


 乗らぬ者をどうするか。


 乗れぬ者をどうするか。


 書いていない。


 書いていないということは、書いた者も知らなかったということだ。


 光秀はそう思った。


 思いながら、山を見ていた。



              *



 信長は、その日のうちに山を降りた。


 誰にも何も言わなかった。


 後になって、山が焼けた跡を調べた者がいる。


 焼けたと分かるのは、根本中堂と大講堂だけだった。他の場所にも焼けた土は出たが、その多くは、この日より前に朽ちて捨てられていたものだったという。


 山は、この日に焼けたのではない。


 この日より前から、半分は死んでいた。


 だが、そのことを言う者はいなかった。


 焼いたことに変わりはなかったからである。



              *



 その年の暮れ、信長は坂本を光秀に与えた。


 焼いた町を、そのまま与えたことになる。


 光秀はそこに城を築いた。湖に面した城である。港を作り、船を着けられるようにした。町を割り、人を呼び戻した。


 五年で、坂本は前より大きくなった。


 通る者は、ここが焼けた町だと知らなかった。

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