【第二部 本編】 三 妙覚寺
一五七〇年五月 京・妙覚寺
信長は三日、誰とも口をきかなかった。
朝、庭に出る。夕方まで座っている。飯は運ばれてくるが、半分も減らない。近習が声をかけても返事をしない。
四日目の午後、光秀が寺へ来た。
朝廷への使者の件で、返答を持ってきたのだった。
光秀はこのころ、幕府と織田の両方に足を置いていた。京の公家衆との取り次ぎは、ほとんどこの男が担っている。
庭に信長がいた。
光秀は縁に膝をついた。信長は振り返らなかった。
「殿」
返事がない。
「勧修寺の件、先方が承知いたしました。日取りは追ってお伝えいたします」
信長は動かなかった。
光秀は下がろうとした。膝を引きかけたとき、信長が言った。
「十兵衛」
「はい」
「なぜ、備前守は裏切った」
光秀は動きを止めた。
信長はこちらを見ていなかった。庭の一点を見ている。
返事を待っている顔でもなかった。声に出しただけだ、と光秀は思った。
それでも、光秀は答えた。
「利にございましょう」
「利ではない」
「では、義にございます」
信長が振り返った。
「義」
「浅井は三代、朝倉に助けられております。備前守殿がどうお考えであれ、家がそれを許しませぬ」
「あれ自身は、乗りたかったと」
「おそらくは」
「では、なおのこと分からん」信長は言った。
「乗りたい者が、乗れんのだ。何をどうすればいい」
光秀は少し考えた。
考えてから、言った。
「差し出がましいことを申しますが」
「言え」
「殿は、乗らぬ者を口説くことに、力を注ぎすぎておられます」
信長は黙っていた。
「備前守殿に費やされた五年は、たしかに大きゅうございます。妹君を嫁がせ、人質も取らず、望みは全部きかれた。それでも駄目だった。ならば、それは初めから実らぬ畑にございました」
「実らぬ畑か」
「はい」
光秀は続けた。ここは書に書いてある通りのことだ、と思いながら言った。力は、直すべきところではなく、伸びるところに注げ。問題を潰しても何も生まれぬ。機会に注げば、そこから返ってくる。
「乗った者の力を伸ばされるほうが、はるかに実りがございましょう。三河の徳川殿は、殿が何もなさらずとも五年、破っておりませぬ。堺も、津島も、乗った者は乗っております。乗らぬ者に五年かけるより、乗った者に五年かけたほうが、国は大きくなりまする」
言い終えて、光秀は自分の言葉を確かめた。間違っていない、と思った。
信長は答えなかった。
長い沈黙だった。
庭で鳥が鳴いた。二度鳴いて、飛んだ。
光秀は、言い過ぎたかもしれないと思った。この人は、浅井を五年かけて口説いた。それを無駄だったと言われて、面白いはずがない。
「出過ぎたことを・・・」
「であるか」
信長が言った。
光秀は顔を上げた。
信長がこちらを見ていた。庭を見ていた顔ではなかった。目が動いている。何かを追っている目だった。
「そうか。乗る乗らぬを、問わずに済むようにすればよいのだ」
信長は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。光秀は、その通りだと思った。
乗った者に力を注げば、乗らぬ者は自然と外れていく。外れた者を追わずともよい。追う手間が要らなくなる。そういう意味だと受け取った。
「御意」
「口説くから、断られる」信長は言った。
「断る隙をやるから、断られる」
「はい」
「隙がなければよい」
「はい」
信長は立ち上がった。三日ぶりに、背筋が伸びていた。
「十兵衛」
「はい」
「お前は、好きなようにこれからも申せ。ゆるす」
光秀は頭を下げた。
頭を下げながら、胸のあたりが温かくなるのを感じた。届いた、と思った。この人には届く。同じものを読んだ者にしか通じぬ話が、この人には一度で通じる。
顔を上げたとき、信長はもう歩き出していた。
「猿を呼べ」
近習が走った。
秀吉が来ると、信長は縁に立ったまま言った。
「六角の残党を、山に残しておけ」
秀吉が顔を上げた。
「は」
「掃くな。半分残せ」
「・・・よろしいのでございますか。あれらは近江の道を荒らしまする」
「荒らさせておけ」
秀吉は何か言いかけて、やめた。
「承知いたしました」
信長は奥へ入っていった。
光秀はまだ縁に膝をついていた。
今のは何だろう、と思った。六角の残党を残す意味が分からなかった。討ち残せば、後で手間が増える。書にも、そのようなことは書かれていない。
だが、この人のすることには、いつも後から意味が分かる。
光秀はそう思って、立ち上がった。
六角の残党のことを、光秀は長く覚えていなかった。




