【第二部 本編】 二 金ヶ崎
一五七〇年四月 越前・金ヶ崎
朝倉の城を二つ落とした翌日だった。
信長は本陣で膳に向かっていた。三つ目の城を明日には落とせる。朝倉義景は一乗谷から出てこない。出てくる前に片をつける。そのつもりだった。
使いが来たのは、飯に手をつける前だった。
尾張から早馬で来た男が、庭に膝をついている。汗で背中が変色していた。
「浅井が」男が言った。「浅井が、後ろに」
信長は箸を置かなかった。
「浅井が何だ」
「小谷を出て、こちらへ」
「何のためにだ」
男は答えられなかった。
信長は箸を置いた。
「もう一度言え」
「浅井備前守さま、御謀反にございます」
陣幕の中が静かになった。
信長は男を見ていた。それから、膳を見た。膳の上のものは何一つ減っていなかった。
「嘘だ」
「は」
「浅井が裏切るはずがない」
誰も何も言わなかった。
秀吉が膝を進めた。
「殿。真であれ偽であれ、退かねばなりませぬ。挟まれます」
「浅井には市をやった」
「はい」
「人質も取らなかった。上下も作らなかった。あれの望みは全部きいた」
「殿」
「なぜだ」
秀吉は答えなかった。答えられる者はいなかった。
信長は立ち上がった。
「退く」
その日のうちに、織田の陣は崩れた。
しんがりは秀吉が残った。信長は十騎ほどで山を越えた。朽木の谷を抜けるのに二日かかった。途中、道に迷った。案内の者が松明を落として、それきり見つからなかった。
京に着いたとき、供は八人になっていた。
信長は死ななかった。それだけだった。
*
一五七〇年四月 近江・小谷
浅井が兵を出したのは、その朝である。
決めたのは、三日前の評定だった。
朝倉から使いが来ていた。織田が越前へ入った、旧誼をお忘れなきよう、とだけ書いてあった。それ以上は書いていない。書く必要がなかった。
長政は広間に家臣を集めた。
集めてから、間違えたと思った。
赤尾清綱が先に口を開いた。祖父の代からの者である。
「越前のご恩を、お忘れではございますまい」
次に海北が言った。同じことを言った。
それから順に、下座まで回った。全員が同じことを言った。言い方まで似ていた。
誰かが打ち合わせたのではない。打ち合わせずに揃ったのだ。
長政は最後まで聞いた。
途中で、一人だけ黙っている者がいた。若い。名を思い出すのに、少しかかった。
その者も、順が回ると、同じことを言った。
長政は、この者たちは自分の家臣ではない、と思った。
浅井の家臣である。
自分は、その家をたまたま継いだ者にすぎない。
*
兵を出した日、小谷城の広間で、浅井長政は父の前に座っていた。
久政は上座にいなかった。隠居してから、この部屋では常に脇に座る。だが家臣は全員、久政のほうを向いていた。
「出しました」長政が言った。
「うむ」
「兵は、今朝方」
「うむ」
長政は手をついたまま、顔を上げなかった。
「父上」
「何だ」
「私は、あの人が好きでした」
久政は答えなかった。
「あの人の言うことは、分かるのです。関を潰し、銭の値を揃え、道を広げる。近江に人が集まれば、浅井も潤う。戦をせずに国が肥える。そういう話でした」
「そうだろうな」
「では、なぜ」
久政は脇息に肘を置いた。老人の顔だった。
「備前守」
「はい」
「お前は、いくつ生きた」
「二十六に」
「儂は五十九だ。儂の父は、朝倉に助けられて国を保った。儂も助けられた。三代だ」
「三代」
「織田との縁は、何年になる」
長政は答えなかった。
「五年だ」久政は言った。「五年の縁と、三代の義理を、秤にかけろと言うのか」
「秤の話ではありませぬ」
「秤の話だ」久政は言った。
「家を継ぐとは、そういうことだ。お前が継いだのは領地ではない。先代が交わした約束を継いだのだ。お前が良いと思うか思わぬかは、そこには入らぬ」
長政は目を閉じた。
「では、私は何のために当主なのですか」
「約束を守るためだ」
久政はそれ以上、何も言わなかった。
家臣たちも何も言わなかった。全員、久政と同じ側に座っていた。
長政は立ち上がった。
廊下に出てから、一度だけ振り返った。誰も見ていなかった。




