【第二部 本編】 一 関
一五六八年九月 近江・観音寺
六角承禎は、戦わずに逃げた。
観音寺城に籠ると言っていたのが、支城の箕作が一日で落ちると、その晩のうちに山を降りた。甲賀へ入ったという。
信長が岐阜を出てから、七日目だった。
足利義昭を奉じている。将軍家の弟である。二年前から越前の朝倉を頼っていたのを、信長が引き取った。上洛して将軍にする、という話になっている。
観音寺の城で、信長は諸将を集めた。
地図を広げた。京までの道筋である。
「明日、瀬田を渡る」
「はっ」
「三好は逃げる。戦にはならん」
誰も異を唱えなかった。実際、その通りになった。
*
京に入ったのは、九月二十六日である。
信長は東寺に本陣を置いた。兵の乱暴を厳しく禁じ、破った者を二人斬った。斬った翌日から、市が立ち始めた。
十月、義昭が将軍宣下を受けた。
本圀寺で祝いの席があった。義昭は上機嫌で、信長を御父と呼んだ。副将軍にすると言った。信長は断った。
その席に、明智十兵衛光秀がいた。
義昭の側に座っている。この十年、義昭に付いて諸国を回ってきた男だという。越前で朝倉と話をつけ、岐阜との橋渡しをしたのもこの男だと聞いた。
信長は一度だけ、その顔を見た。
見ただけだった。
*
一五六八年十月 京・東寺
触れが出たのは、その月のうちである。
尾張、美濃、近江の関所を、すべて廃す。関銭を取ることを禁ずる。
東寺の一室で、村井貞勝がその写しを持って入ってきた。
「殿」
「うむ」
「近江だけで、六十を超えまする」
「知っている」
「関銭は、年に・・・」
「言うな」
村井は口を閉じた。
信長は書状を書いていた。手を止めない。
「殿。恐れながら、これは」
「言え」
「取れるものを、取らぬのでございますか」
信長は筆を置いた。
「村井」
「は」
「岐阜から京まで、荷が何日かかる」
「陸で、七日ほどかと」
「関はいくつある」
「・・・四十は下りませぬ」
「一つで銭を取られる。四十で四十回だ。取られた分は、どこへ乗る」
「荷の値に」
「そうだ」
信長は立ち上がった。
「京で塩を買う者は、塩の値と一緒に、四十回分の関銭を払っている。関を持っている者は、その銭で何をしている」
「・・・何も」
「何もせん。座っているだけだ。座っている者に、天下が銭を払っている」
村井は答えなかった。
「潰す」
「はい」
「荷が動けば、銭は動く。動く銭のほうが、座っている銭より多い」
信長はそう言って、また座った。
村井は写しを持ったまま、しばらく立っていた。
「殿」
「まだあるか」
「関を持っておるのは、寺と公家にございます」
「知っている」
「恨まれまする」
「恨ませておけ」
村井は下がった。
*
その触れは、方々で問題になった。
比叡山が朝廷に訴えた。近江の山門領の関は、寺を支える銭である、と。仁和寺も、東大寺も、同じことを言った。
朝廷は綸旨を出した。寺領を返せという内容である。
信長は従わなかった。
従わないまま、翌年、伊勢へ入った。北畠を降し、次男を養子に入れた。その直後に、伊勢の関も廃した。
伊勢の関は、伊勢参りの道にある。年に何万という人が通る。廃したことで、参詣の者が増えた。増えた分だけ、宿と店が潤った。
誰も表立って喜ばなかった。関を持っていた者に憚りがある。
だが、道の上では、みな喜んでいた。
*
一五六九年二月 京
銭の触れが出たのは、その年の二月である。
これは、関の話より分かりにくかった。
当時、京や堺で使われている銭は、大半が明から来た永楽通宝である。ほかに、欠けたもの、割れたもの、日本で勝手に鋳たものが混じっている。
商人はそれを選ぶ。
良い銭だけを受け取り、悪い銭を断る。断られた者は、また別の店へ行く。そこでも断られる。銭を持っているのに、物が買えない。
これを撰銭という。
信長の触れは、こうだった。
銭を選ぶことを禁ずる。ただし、良い銭と悪い銭の値を、こちらで定める。精銭一枚に対し、こういう銭は二枚、こういう銭は五枚、こういう銭は十枚とする。それより下の、使えぬ銭は、これこれである。
さらに、こうあった。
高い買い物には、金と銀を使ってよい。金一両は何貫、銀一両は何貫とする。
そして、米で物を買うことを禁ずる。
村井が首をひねった。
「殿。米を禁じられるのは、なぜにございます」
「米は腐る」
「は」
「米で払う者は、銭を使わぬ。銭を使わぬ者が増えれば、銭が動かん」
「なるほど」
「それに、米は目方で値が変わる。日照りの年と、豊作の年で、同じ米が違う値になる。それでは、去年の商いと今年の商いが比べられん」
村井は書き取った。
書き取りながら、この人はどこでこういうことを覚えたのだろう、と思った。
尾張の田舎で育った人である。銭のことなど、津島の商人に任せておけばよい身分だった。
だが村井は、それを聞かなかった。
聞いても答えないことを、家中の者はみな知っていた。
*
同じ頃、明智光秀は、その触れの写しを読んでいた。
将軍の使いとして、堺の会合衆に何度か行っている。堺の者が、この触れを見て何と言うか。それを聞いてくるのが役目だった。
堺の者は、驚いていた。
こういうことを、これまで誰もしなかった。銭が回らぬのは、みな知っている。だが、どうすればよいかは誰も分からなかった。値を定めるという発想が、なかった。
定めれば、揉め事が減る。
揉め事が減れば、遠くの者とも商いができる。顔を知らぬ者とでも、銭のやりとりができる。
光秀は写しを膝に置いて、しばらく動かなかった。
この触れは、商人のために出したものではない。
商人が動けば、物が動く。物が動けば、遠くの村まで塩が届く。塩が届けば、その村は飢えぬ。
誰のためにやっているのか、と考えれば、そこに行き着く。
『事を為す者は、まず問わねばならぬ。おのれの為すことは、誰のためにあるのか。それを問わずに始める者は、必ず途中で道を失う。』
光秀は、その一行を覚えていた。
美濃を出てから、あの書は誰にも見せていない。読み返すのは年に何度もない。だが、この一行だけは覚えていた。
あの人は、誰のためにやっているのかを、知っている。
光秀は写しを畳んだ。
畳んでから、もう一つのことに思い当たった。
道三が死んだとき、書はどこへ行ったか。
自分に一つ渡された。あれは、道三の手元にあったものだ。
では、もとの持ち主は。
美濃を継いだのは、あの人である。
光秀は立ち上がった。
*
義昭と信長の間が悪くなり始めるのは、その翌年からである。
光秀は、しばらくの間、両方に仕えた。将軍の家臣であり、織田の家臣でもあるという、妙な立場だった。
どちらを選ぶかは、まだ決めていなかった。
決める必要が、まだなかった。




