【第一部 本編】 六 岐阜
一五六七年八月 美濃・稲葉山
稲葉山は、ほとんど戦わずに落ちた。
三年かけて、稲葉、氏家、安藤の三人を寝返らせた。この三人が動けば、稲葉山の兵の半分が動く。半分が動けば、残りは戦にならない。
城に火の手が上がったのは、明け方だった。誰が放ったのか分からない。斎藤龍興は前の晩のうちに城を出て、長良川を舟で下ったという。
信長は昼過ぎに山を登った。
道の途中に、荷が捨ててあった。行李が割れて、中の着物が散っている。それを踏まないように避けながら、上まで行った。
城は焼けていた。全部ではない。奥の一角と、二の丸が焼けている。消す者がいなかったので、そのまま燃えていた。
信長は焼けていない側の廊下に立って、下を見た。
濃尾の平野が全部見える。西に伊吹、南に木曽の流れ。晴れていた。
義父はここから、これを見ていたのだ。
信長は少しの間、そうしていた。
*
帰蝶がいないと分かったのは、その日の夕方だった。
清洲を出るとき、帰蝶は同行していない。だが美濃を取ったら呼ぶと言ってあった。使いを出したところ、清洲にいないという返事が来た。
「どういうことだ」
「三日前に、お発ちになったと」
「どこへ」
「稲葉山へ、と」
信長は使いの顔を見た。
「誰が付いた」
「侍女が二人と、供が四人」
「戻ってきていないのか」
「はい」
信長は稲葉山の中を探させた。焼けた奥から、女の死体がいくつか出た。どれも帰蝶ではなかった。侍女の死体もなかった。
城下を探させた。麓の寺を全部当たらせた。長良川の川筋を、下流まで人を出して見に行かせた。
三日探して、何も出なかった。
十日探して、何も出なかった。
ひと月経った。
誰も、何も見ていなかった。
*
清洲を発つ前の晩、信長と帰蝶は少し言い合いをしている。
大した話ではなかった。
帰蝶が、稲葉山を焼くのかと聞いた。
信長は、焼かぬと言った。使う城だ。
帰蝶は、龍興のことを聞いた。あれは甥にあたる。殺すのかと。
信長は、逃げれば追わぬと言った。
それから帰蝶が、こう言った。
「父の国を、殿が」
信長は書を読んでいた。顔を上げなかった。
「お前の父が、俺にくれた」
「紙の上でございます」
「紙の上のものを、形にするのが俺の仕事だ」
帰蝶はそれきり何も言わなかった。
少しして、部屋を出ていった。
信長は書を読み続けた。翌朝、出立の支度で慌ただしく、帰蝶とはろくに口をきかなかった。
それだけだ。
取り返しのつく話だった。美濃を取ってから、いくらでも言えることだった。
*
冬になっても、帰蝶は見つからなかった。
信長は探すのをやめなかった。だが、探せと言う相手がいなくなった。近江に人を出し、越前に人を出し、京にまで人を出した。何も出なかった。
死んだのかもしれない。
城が焼けたとき、中にいたのかもしれない。焼けた者は、判別がつかない。
あるいは、あの晩のことを気にして、どこかへ行ったのかもしれない。
信長には、後のほうがありそうに思えた。
思えたが、そう思う自分が嫌だった。
そう思っているうちは、探すのをやめなくて済むからだ。
*
一五六七年十一月 美濃・岐阜
信長は井ノ口を岐阜と改めた。
沢彦という僧が三つの候補を挙げた中から、選んだ。周の文王が岐山から起こったという話だった。信長は由来を聞いて、うむとだけ言った。
同じ月、印を作らせた。
朱の印である。四つの字を彫らせた。
天下布武。
沢彦がそれも案じた。信長がそれでいいと言った。
家臣たちは、それを見て黙った。
武をもって天下を布く。そう読める。
尾張と美濃を取ったばかりの男が、日ノ本を全部取ると言っている。そう読める。
柴田が聞いた。
「殿。これは、どこまでを指しまするか」
「どこまでとは」
「天下と申しますのは、五畿内のことにございますか。それとも」
「そんなものは、どうでもよい」
柴田は黙った。
信長はそれ以上、何も説明しなかった。
その夜、信長は一人で書を開いた。
どこを開くとも決めずに開いた。人を使う法。時の使い方。力の集め方。事を決めるとき、何から始めるか。全部、頭に入っている。
書を手にしてから、ここに書いてあることで、間違ったことは一つもなかった。
だが、今日のことは、書いていない。
旗に何と書くか。それをどう読ませるか。この先、自分が何をやろうとしているのか。
書のどこにも、それは書いていない。
書いてあるのは、やり方だけだ。
何をやるかは、自分で決めろということだろう。
信長は書を閉じた。
閉じてから、朱の印を手に取った。彫ったばかりで、まだ朱が乗っていない。
天下布武。
武で取る、という意味ではなかった。
国をまとめて分かったことがある。国が焼けるのは、人が食えぬからだ。食えぬから奪う。奪うから焼ける。焼けるからまた食えぬ。尾張でそれを見た。美濃でも見た。
人が食える形を作れば、戦は要らなくなる。
その形を、天下に敷く。
布くというのは、そういうことだ。
誰にも言わなかった。
言えば、説明しなければならない。説明したところで、柴田には分からない。分からせるには、書を見せるしかない。
見せる気は、なかった。
信長は印に朱を乗せて、紙に押した。
四つの字が、きれいに出た。
その紙を、しばらく見ていた。
こういうときに、何か言う相手がいた。
妙な角度から、何でもないことを言う。それを聞くと、こちらの頭の中の何かが動く。本人は何を言ったのかも分かっていない。
いなかった。
信長は紙を伏せて、灯りを消した。
外は雪になりそうだった。




