【第一部 解説】 五 稲葉山
■ 問いを立て直す
三度負けて攻めるのをやめた後、信長が開いたのはこの二箇所です。
『事を決めるとき、誰が正しいかから始めるな。何が正しいかから始めよ。人は、まず誰に従うかを考える。それでは、答えは人の数だけ出る。』
『問いを立て直せ。いま解こうとしている問いは、本当に解くべき問いか。多くの場合、人は解けぬ問いを解こうとして力を費やしている。』
意思決定について、ドラッカーが最も強調したのは、決める前の段階です。
多くの組織は、選択肢を並べて比べることを意思決定だと考えています。ですが、選択肢が出てきた時点で、問いは既に決まっています。問いが間違っていれば、どの選択肢を選んでも間違いです。
信長が十一年間解こうとしていた問いは、稲葉山をどう落とすか、でした。
道が一本しかない。兵が上がれない。上から石を落とされる。何度やっても同じです。攻め方を変えても、兵を増やしても、結果は変わりませんでした。
この問いは、解けません。
解けない問いを解こうとしているとき、人は自分が努力していると感じます。工夫もしますし、消耗もします。だから、問いそのものを疑うのが遅れます。
信長は問いを変えました。
城は、どういうときに落ちるか。兵がいなくなったときである。兵は、なぜそこにいるか。将がいるからである。将は、なぜそこにいるか。
三段さかのぼって、答えが出ました。西美濃の三人が動けば、城の兵の半分が動く。
問いが変わると、必要な仕事も変わります。それまでは兵と武具の問題でしたが、ここから先は人の問題になりました。
もう一つ、この章には人事の原則が入っています。
「三人の欲しいものを、まず調べろ。銭か、領地か、名か、それとも別のものか。人によって違う」
半年後、秀吉が持ち帰った答えは、三人とも違いました。
稲葉は座次でした。家格が古いのに、龍興が新参のように扱う。氏家は領地でした。北方の三千貫を長く欲しがっていた。安藤は、その二つのどちらでもありませんでした。一度疑われて城を取り上げられかけ、戻ってはいるが、それきり誰も自分の言うことを聞かない。
三人とも、銭ではありませんでした。
これは人を動かす仕事の、いちばん面倒な部分です。相手が何を求めているかは、こちらの想像では分かりません。調べるしかない。そして調べると、たいてい想像と違います。
信長の返答も、それぞれ違いました。稲葉には座を与える。氏家には領地を与える。安藤には、会うとだけ言う。
安藤への返答は、銭でも領地でもありません。
城を取り上げられたわけでも、禄を減らされたわけでもない男に、何が起きていたのか。信長はそれを説明していません。ただ、銭でも領地でもないものが要る、と判断して、自分が会うと言いました。
当たりました。三人は同時に織田へ付き、城は三日で落ちます。
ですが、この章の末尾で、信長は書に何かを探しています。
三人が何を欲しがっているかは、強みの話ではありません。人を使う法から探しても、そこには書いていない。信長は探して、見つけられませんでした。
前がないのだ、と思った、とあります。話の途中から始まっている箇所が、この書にはいくつもある。そのどれかだったかもしれない。
やり方は当たりました。なぜ当たるのかは、分かりませんでした。
■ 史実では
信長が美濃攻略に長い年月を費やしたことは事実です。一五五六年の道三の死から一五六七年の稲葉山陥落まで、十一年かかっています。その間、何度も出兵して撃退されました。
西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通(一鉄)、氏家直元(卜全)、安藤守就が一五六七年に信長へ内応し、それが稲葉山陥落の直接の要因になったことも、おおむね事実とされています。
木下藤吉郎(秀吉)が調略に関わったという話は広く伝わっていますが、同時代史料での裏付けは弱く、後世の秀吉伝説による部分が大きいと見られています。三年かけて口説いたという時間の設定は、本作の創作です。
安藤守就が斎藤氏に疑われて一時的に処遇を失っていたという話は、断片的な伝承として残ります。ただし詳細は分かりません。稲葉良通の家格意識、氏家直元の所領への執着も、いずれも記録された事実ではなく、本作が組み立てたものです。
三人が何を求めて寝返ったのかは、結局のところ分かりません。単に斎藤氏の将来に見切りをつけただけかもしれません。
問いを立て直す、という信長の思考過程も、記録にはありません。攻めるのをやめて調略に切り替えたのは事実ですが、それが自覚的な方針転換だったのか、正面攻撃に失敗し続けた末の消去法だったのかは、史料からは判断できません。
ただ、どちらであっても構わないとも言えます。
ドラッカーが問いの立て直しを説いたのは、それが才能ではなく手順だからです。行き詰まった人間が、行き詰まったから問いを疑う。順番としては、それで足ります。十一年やって駄目だったから立ち止まった、というだけの話でも、立ち止まりさえすれば問いは変えられます。




