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本能寺の決算書 ――もしも、織田信長がドラッカーを読んでいたら  作者: 島村 巡
第一部

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【第一部 本編】 五 稲葉山

一五六四年 美濃


 美濃は落ちなかった。


 道三が死んでから八年、信長は何度も出た。何度も追い返された。


 稲葉山は、山の上にある。麓から一本道である。攻め口がない。城を囲もうにも、山が大きすぎる。


 三度目に負けた後、信長は攻めるのをやめた。


              *


 やめて、書を開いた。


『事を決めるとき、誰が正しいかから始めるな。何が正しいかから始めよ。人は、まず誰に従うかを考える。それでは、答えは人の数だけ出る。』


 信長は、その先を読んだ。


『問いを立て直せ。いま解こうとしている問いは、本当に解くべき問いか。多くの場合、人は解けぬ問いを解こうとして力を費やしている。』


 信長は書を置いた。


 自分は何を解こうとしていたか。


 稲葉山をどう落とすか、である。


 道が一本しかない。兵が上がれない。上から石を落とされる。何度やっても同じだ。


 この問いは、解けない。


 信長は問いを変えた。


 城は、どういうときに落ちるか。


 兵がいなくなったときである。


 兵は、なぜそこにいるか。


 将がいるからである。


 将は、なぜそこにいるか。


 信長はそこで、地図を出した。


 美濃の地図である。稲葉山の周りに、いくつも名が書いてある。稲葉、氏家、安藤。西美濃の三人。それぞれが城を持ち、兵を持っている。


 この三人が動けば、稲葉山の兵の半分が動く。


「猿」


 秀吉が来た。


「西美濃へ行け」


「はっ」


「稲葉、氏家、安藤だ。落とせ」


「城をでございますか」


「人だ」


 秀吉は顔を上げた。


「何年かけてもよい」信長は言った。「戦はせぬ。誰にも言うな」


「・・・承知いたしました」


「もう一つ」


「は」


「三人の欲しいものを、まず調べろ。銭か、領地か、名か、それとも別のものか。人によって違う」


「はい」


「調べてから、来い」


 秀吉は行った。


              *


 半年して、秀吉が戻ってきた。


「調べてまいりました」


「言え」


「稲葉伊予守は、銭ではございませぬ。領地でもございませぬ」


「では何だ」


「家にございます。稲葉の家は、美濃では古うございます。斎藤より古い。それを、龍興が新参のように扱いまする。評定の座次が、下にございます」


「座次か」


「はい」


 信長は少し黙った。


「氏家は」


「あれは分かりやすうございます。北方の三千貫を、長らく欲しがっております」


「安藤は」


 秀吉は言いよどんだ。


「安藤伊賀守は、一度、龍興に疑われております。城を取り上げられかけました」


「取り上げられたのか」


「戻っております。ですが、それきり、家中で誰もあの者の言うことを聞きませぬ。評定に出ても、何も言わぬそうにございます」


 信長は湯を飲んだ。


「三人とも、銭ではないのだな」


「一人も、銭とは申しませんでした」


 信長は湯呑みを置いた。


「稲葉には、こう言え。織田へ来れば、美濃で一番の座を取らせる」


「はい」


「氏家には、北方をやる」


「はい」


「安藤には」


 信長は少し考えた。


「安藤には、俺が会う」


 秀吉が顔を上げた。


「それだけでございますか」


「それだけだ。会う、と言え」


「・・・承知いたしました」


 秀吉は西美濃へ戻った。


              *


 その夜、信長は書を開いた。


 人の強きを見よ、というくだりを読んだ。何度も読んだ場所である。


 だが、今日のことは、そこに書いていない。


 三人が何を欲しがっているか。それは、強みの話ではない。


 座次。領地。誰も口をきかぬこと。


 三人とも、違うものを欲しがっている。銭で揃えられるものは、一つもなかった。


 書には、そういうことも書いてあったような気がした。


 探した。見つからなかった。


 前がないのだ、と思った。話の途中から始まっている箇所が、いくつかある。あれのどれかだったかもしれない。


 信長は書を閉じた。


              *


 それから、三年かかった。


 一五六七年八月、三人が同時に信長に付いた。


 その報せが稲葉山に伝わった翌日、城の兵が半分になった。二日目にはさらに減った。三日目、斎藤龍興は城を出た。


 戦はなかった。


 道三が死んでから十一年、信長が落とせなかった城が、三日で落ちた。


 柴田権六が、後にこう言っている。


 殿は、あの三年、美濃の話を一度もされなかった。忘れておられるのかと思った。


 忘れてはいなかった。


 別のことをやっていただけである。

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