第9話:薬膳の奇跡と、呪縛からの解放
石造りの地下室の空気は、肺の奥を焼き焦がすほどに乾燥し、異常な熱を帯びていた。
アルテは、煮えたぎる大鍋の前に立ち、重い鉄の乳棒を両手で握りしめたまま、小さく、浅い呼吸を繰り返していた。額から流れ落ちた汗が顎を伝い、床の石畳に黒い染みを作っていく。
王都から、近衛騎士団の軍勢がこの辺境に向けて出立したという報せが入ったのは、半日前のことだ。
ガーディアは「虫けらが這い出てきただけだ」と冷たく言い捨て、迎撃の準備を騎士たちに命じていた。彼の圧倒的な武力の前では、王都の軍勢など取るに足らない脅威でしかない。
だが、アルテは知っている。彼が魔力を大規模に解放すれば、十年もの間彼の肉体に絡みついている呪いの紋様が、今度こそ彼の心臓を完全に喰い破るかもしれないということを。
アルテの視界が、白く明滅した。
ガクンと膝が折れそうになるのを、乳棒に体重をかけて必死に堪える。
鍋の中で赤黒く煮えたぎっているのは、彼女が持てる知識と、自らの魂そのものを削り出して調合している大魔導薬膳。かつて王都の地下室で調合した粗悪な滋養薬とは次元が違う。辺境の最深部でしか採れない『竜の血脈草』と、魔力そのものを結晶化させた『星屑の涙』。
これらを完全に融合させるには、術者自身の体内の魔力回路を全開にし、一滴残らず鍋の中へと注ぎ込み続けなければならない。
アルテの指先から皮膚が弾け、赤い血がツツーッと鉄の棒を伝って鍋の中へと落ちる。血と魔力が混ざり合った瞬間、赤黒かった液体が、目を眩ませるような純金の光を放ち始めた。
バチバチと、空間そのものがショートするような鋭い音が鳴る。
甘く、そして深い森の最奥のような、圧倒的な清浄の匂いが地下室を満たした。
「……できた」
掠れた、砂を噛むような声が喉から漏れた。
アルテは震える手で、黄金の液体を厚手のクリスタルグラスに注ぎ込んだ。グラスの表面から、尋常ではない熱が伝わってくる。
同時に、アルテの身体から、音を立てて何かが抜け落ちた。
足先の感覚が完全に消失し、体温が急速に奪われていく。立っていることすらままならない。それでも彼女は、黄金に輝くグラスを両手で抱え込むように胸に抱き、壁伝いに、ガーディアの私室へと続く長い石の階段を登り始めた。
重厚な黒檀の扉。
アルテがそれに寄りかかった瞬間、扉は内側から乱暴に引き開けられた。
バランスを崩し、冷たい廊下の床に倒れ込む寸前。
「アルテ──!」
悲鳴のような、獣の咆哮のような声が鼓膜を打った。
アルテの身体は床に落ちる前に、強靭な太い腕によって空中で受け止められていた。
ガーディアだった。彼は執務の途中だったのか、シャツの袖を捲り上げた姿のまま、アルテの身体を抱き抱え、その顔を覗き込んでいた。
彼の真紅の瞳孔が、極限まで収縮している。
アルテの血の気を失った蒼白な顔、汗に濡れて張り付いた髪、そして、皮膚が裂け、血に染まった指先。それらを視界に収めた瞬間、ガーディアの周囲の空気が、物理的な音を立てて凍りついた。パキパキと、廊下の壁を覆っていた石材に亀裂が入り、圧倒的な殺意と絶望が混ざり合った魔力の暴風が吹き荒れる。
「誰だ。誰が、お前をここまで……!」
彼の手が震えていた。アルテの身体を抱くその巨体が、信じられないほどに小刻みに震えている。
アルテは、自分の指先がもうピクリとも動かないことを自覚しながら、胸に抱き抱えていた黄金のグラスを、ゆっくりとガーディアの顔の前へと押し出した。
彼自身の放つ冷気の中で、そのグラスだけが、太陽の欠片のように熱く、眩しく発光している。
「飲んで……ください」
アルテの口から漏れた息は、白く凍っていた。
「王都の軍を迎え撃てば、あなたの呪いが……私から離れて、あなたが苦しむのは、もう……」
言葉が続かない。まぶたが鉛のように重く、意識が暗い泥の底へと沈んでいく。
それでも、アルテはグラスを押し付ける手を離さなかった。
ガーディアの顔が、無惨に歪んだ。
彼は一切の躊躇なく、アルテの手からグラスを奪い取ると、煮えたぎるような黄金の液体を、一息で自らの喉の奥へと流し込んだ。
ガシャァン!
空になったグラスが床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
その直後。
ガーディアの肉体が、大きく弓なりに反った。
彼の胸元、シャツの隙間から覗く漆黒の呪いの紋様が、まるで熱鉄を押し当てられたようにジュウジュウと嫌な音を立てて白煙を上げ始める。
十年もの間、彼の肉体と魔力を縛り付け、その命を削り続けてきた強固な呪縛。それが、アルテの命を懸けた純粋な魔力と薬膳の成分によって、内側から完全に破壊されていく。
「……ぅ、あ……!」
獣の呻き声と共に、彼の体内からどす黒い瘴気が一気に噴出した。
しかし、その瘴気は空中に放たれた瞬間、アルテの薬膳が放つ黄金の光によって浄化され、サラサラとした光の粒となって霧散していく。
バツン、と。目に見えない巨大な鎖が千切れる音が、城全体を揺るがした。
解放。
ガーディアの肉体を覆っていた黒い脈動が完全に消え去り、火傷のようなケロイドの痕跡すらも、元の滑らかな皮膚へと再生していく。
そして、抑えつけられていた彼本来の、純度百パーセントの圧倒的な魔力が、静かな呼吸と共に部屋の空間を満たした。それは恐怖を煽る冷気ではなく、広大な夜空のように深く、穏やかで、底知れぬ力強さを孕んでいた。
完全に呪いが解けた。国最強の、真の力が戻った。
しかし、ガーディアは己の肉体の変化など、一瞥もしていなかった。
彼は床に片膝をつき、意識を失いかけているアルテの身体を、自らの胸の中に深く、痛いほどに抱き込んでいた。
「アルテ……アルテ、目を開けろ。息をしろ」
彼の太い指が、アルテの血のついた頬を必死に撫でる。
アルテは、重い瞼をわずかに持ち上げた。
視界に映る彼の真紅の瞳には、かつて底に沈んでいた呪いの濁りが一切ない。どこまでも澄み切った、美しい赤。
「……痛く、ないですか」
微かなアルテの問いに、ガーディアは顔を歪め、彼女の首筋に深く顔を埋めた。
「お前が冷たくなっていくこと以外に、俺を脅かす痛みなど、この世界には存在しない」
彼自身の強大な魔力が、温かい波となってアルテの身体へと注ぎ込まれていく。枯渇していたアルテの体内に、彼の熱が血液のように巡り、失われていた指先の感覚が徐々に蘇ってくるのがわかった。
ガーディアはアルテを抱き上げたまま、天蓋ベッドへと向かい、彼女をそっとシーツの上に下ろした。
彼自身もベッドに上がり、逃げ道を塞ぐようにアルテの小さな身体に覆い被さる。彼の熱い両手が、アルテの頬を包み込んだ。
「俺は、お前との契約を破棄する」
静かな、しかし確固たる意志を持った声だった。
アルテの肩が、微かに跳ねる。
「……もう、必要ないということですか。私の、薬膳は……」
その言葉を遮るように、ガーディアの唇が、アルテの血の滲む指先に深く押し当てられた。
チュッ、と微かな水音を立てて、彼がアルテの指先の傷を舐め上げる。
「契約などという、安い言葉でお前を縛るのはもうやめだ」
彼の真紅の瞳が、アルテの双眸を真っ直ぐに射抜く。
そこにあるのは、圧倒的な独占欲と、自らの魂の半身を永遠に鎖で繋ごうとする、狂おしいほどの執着。
「俺の苦痛を取り除いてほしいからではない。俺の呪いが解けたからでもない。……俺の細胞のすべてが、お前という存在を呼吸しなければ生きていけないと叫んでいる。お前は、俺の番だ。誰にも渡さない。誰の視界にも入れさせない」
彼の大きな手が、アルテの指と深く絡み合い、そのままシーツの上に縫い付けるように押し押さえられた。
アルテは、息を飲んだ。
実家でも、王宮でも、常に何かの「役に立つ」ことでしか自分の存在を許されなかった。だが今、目の前で彼女を組み敷く絶対的な支配者は、彼女の技術や役割ではなく、彼女の命そのもの、存在のすべてを欲し、喰らい尽くそうとしている。
「……私の、すべてを。奪って、くださいますか」
アルテの唇から零れたその言葉は、自分でも驚くほど、甘く、そして深い熱を帯びていた。
ガーディアの喉の奥から、低く、切実な唸り声が漏れる。
彼がゆっくりと顔を近づけ、二人の呼吸が完全に混ざり合う。辺境の分厚い城壁に守られた鳥籠の中で、形ばかりの契約は完全に燃え尽き、二人の魂は、もはや二度と解けることのない絶対的な鎖で深く結びついた。










